横浜国際女子マラソン/Flat42.195
息子はただ外に出たかっただけなのですぐに飽きて道ばたに落ちているどんぐりを拾ってはポケットに詰め込んでいた。
2009年で終了した横浜国際女子駅伝の時は沿道を埋め尽くす人々の肩越しに観ていたものだが、なぜか今回のマラソンには応援する人々もいるにはいたが、割とまばらで寂しい印象を受けた。
箱根駅伝の時のように携帯電話を片手にテレビ中継車にVサインを送る者の姿も見かけなかった。
これもマラソンという競技の持つ孤独性ゆえのことなのだろうか。それともただ寒かったからなのかは分からない。
ただ駅伝というチーム競技に人は感情移入しやすいのだろうとは思う。
もちろん駅伝に限ったことではない。オリンピックなどその最たるものだろう。
人々の多くは自国の選手を応援する。ごくたまに素晴らしい奇跡的なプレイをする他国の選手に感動することはあるが。
…つまりわれわれは、「われわれ」を感じさせてくれるものには感情移入しやすいが、そうでないものにはなかなか自分を投影しづらいのかも知れない。
ふと何年か前に図書館で借りて読んだ佐々木俊尚の『フラット革命』を思い出す。
詳細は忘れてしまったが、佐々木氏はその中で、「われわれの喪失」ということを言っていた。
グローバリズムやインターネットの普及その他で社会的枠組みの変化が起こり(フラット化)、「われわれの喪失」が起こりつつある、というようなことだったと思う。
そうであれば、「われわれ」が喪失しつつある時代にこの寒空の下、われわれは感情移入しづらい競技を観に行こうとは思わないのかも知れない。
また佐々木氏は、同書の中で匿名言論の登場や取材の可視化、ブログ論壇の登場などによるマスメディアのインターネット(フラット化)への憎悪についても触れていたのを思い出したが、今回の大会では、駅伝では必ず見かける新聞社が沿道で声援を送る人々に配る紙の小旗がなかったことも印象的だった。まあ小旗は駅伝に限ったものなのかも知れないが。
いずれにせよこの記事を書きながらあらためて思うのは今回の横浜国際女子マラソンは、「おれ的に」はフラット化を象徴する一つの出来事だったということだ。
今やパワーの源泉は、古い組織の世界から<わたし>へと劇的にシフトしつつある。しかしそのような劇的なパワーシフトの向こう側に泳ぎ渡ってしまったとき、まゆでくるまれたように安心に浸された戦後社会を生きてきた日本人は<わたし>であることの重みに耐えられるのだろうか/ 佐々木俊尚『フラット革命』より
…そして彼女たちはフラットな道を自らの重みに耐えながらおれの前を走り去っていった。
おれと息子はイトーヨーカドーに寄って、風邪で寝込んでいる娘の本とティッシュペーパーとスティック糊を買って家路に着いた。