君は『ソルト』を観たか?
DVD「ソルト」を観た。
ちょうど一年前に劇場公開された作品だが、一年という時間がその意味を熟成させたのかも知れない。 公開当時のレビュー、批評を検索したが、どれも目立った評価は得られてない印象を受けた。 ただアンジェリーナ・ジョリーが主演したB級アクション映画という扱いだ。 あるいは、荒唐無稽。 あるいは、貧弱なストーリー。 どれも間違いではない。そもそも批評や感想に正解というものはないのだから。 だからおれもおれなりの感想がある。 「ソルト」は支配されていた者たちの翻す叛旗を描いた映画である。 組織に抑圧され虚偽を押し付けられた者たちの上げる狼煙である。 印画紙に焼き付けられた像がゆっくりと浮かび上がるように、ポスト311の日本という暗室で「ソルト」に込められたメッセージが一年という時間を経て現れたのだ。 東日本大震災、福島原発事故…そしてこれに続く様々な出来事が噴出するこの国で「ソルト」はある種のリアリティを獲得した。 菅総理の脱原発発言を「個人」の思いに過ぎないと片付けようとするその部下たち。 松本前大臣の「暴言」に大騒ぎする人々。 やらせメールの発覚。 放射能の暫定基準値の問題。 こうした事象に「個人」が存在する余地があるだろうか。 おそらくどこにもない。 それはある種の「人々」にとっては取るに足らないたわ言に過ぎないのだ。 だが、果たしてそうだろうか。
個人とはその程度の存在なのだろうか。 いざとなればあっさりと切り捨てられる存在なのだろうか。 これまではそうだったのかも知れない。しかし、311後何かが変わった、変わりつつある予感がする。 小さな呟きが徐々にその音量を上げてきている。 その象徴のひとつがあの「なでしこジャパン」だ。 彼女たちは世界一となったのだ。 つまりこれは日本女性は世界に通用するということの象徴なのだ。 すでに日本女性は日本の男たちが躍起になって追いかけている「ワールドスタンダード」を達成しているということだ。 それではなぜ彼女たちは「ワールドスタンダード」を達成しているのか。 それは彼女たちが女性だからなのだとおれは思う。 なぜ女性は男性より「ワールドスタンダード」に近いのか。 それは女性の方が、より「個人」に近い存在だからだ。 「いざとなればあっさりと切り捨てられる」個人に近い存在だからだ。 「ワールドスタンダード」の根底を支えているものは個人主義なのだ。 もちろんこの「ワールドスタンダード」はアメリカ資本主義の求めるものではない。 それは主義でさえない。 言わば、21世紀の人間の意識が向かう自然あるいは必然としての流れのことだ。 少なくともこの日本社会では大筋として「個人」または「私」というものは軽視されてきた。 「私」を主張するものは「和」を乱す存在として力を奪われ続けてきた。 「女子供」という言葉は、弱者という意味と同時に男より下位な存在であるということの表現である。 そして今、あの震災と原発事故によって「和」が揺らいでいる。 そしてまた弱者が切り捨てられようとしている。 そんな嫌なムードを蹴散らすかのように、弱者的存在を内包するなでしこジャパンが栄冠を勝ち取ったのだ。 おれたちはこの意味を噛み締めなくてはならない。 今、この国を、和の国を立て直す存在を切り捨ててはならない。 弱者は本当は弱者ではない。 それは押し付けられた幻想なのだ。 B級アクション映画の衣をまとった「ソルト」が実はそうでないように。
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