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ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

そりゃ苦虫女になるさ

 

 

 

 

 

百万円と苦虫女 [DVD]

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百万円と苦虫女』(ひゃくまんえんとにがむしおんな)は2008年7月19日公開の日本映画蒼井優が演じる主人公の鈴子がひょんなことから前科持ちになってしまい、実家を離れて各地を転々としながら生活していく姿を描いた青春ロードムービー。監督のタナダユキは2009年2月に本作で第49回日本映画監督協会新人賞を受賞した。

wikipediaより抜粋〉

 

…まあ引用したまんまの映画だが、なかなか面白かった。

 

ロードムービーと言えば確かにそうなんだろうけど、これはいわゆる草食系男子を描いた映画なんだな。

 

移動する鈴子の前に現れる男たちはことごとくいい奴ではあるが、今ひとつ積極性がない。

 

海の家で出会ったあんちゃんは何ていうか、今風?の若者でチョイ悪っぽい自分を演出してはいるが、根は純朴なやつ。

 

桃農園の息子は母親と二人暮らしで黙々と働く日々の中で異性との出会いもなくいつの間にかいいおっさんになってしまい鈴子の出現に戸惑いどう接していいのか分からない。

 

そして東京近郊の地方都市のホームセンターでバイトする大学生。ヤツももちろんいい奴で鈴子もちょっとフラッときてしまい付き合ったりするんだけど、そのうち鈴子にカネの無心をするようになる。(まあこれは奴なりの意図があるんだが…ピントがズレているが)

 

いずれにせよどいつもこいつもいい奴で溜め息が出る。溜め息しか出ない。

 

もうちょっとどうにかできないのか?もっとガーッといかんかい!などと見ていて歯痒くなってくる。

 

で、やつら草食系男子は鈴子が去った後、溜め息をついて自分の記憶のフォルダー内に「切ない思い出」というタグをつけて保存して終わるのだ。

 

おめでたいやつらだ。
結局のところやつらはフラれて自己イメージが傷つくのが怖いのだ。

 

都会からやってきたちょっとボンヤリした感じの女の子よりも「優しい男の子」たるボクのイメージの方が大事なのだ。

 

それじゃ何でそんな草食系男子が増えたのか。その問いに対するひとつのヒントが鈴子の弟・拓也にある。

 

草食系男子の原型とも言える拓也は出来もよくて一時は中学受験も目指す優等生だったが、鈴子が問題を起こしたせいで私立受験がダメになったとなじる。

 

姉がなぜ「事件」を起こしたのか知ろうとするよりまず我が身の行く末を案じるのだ。

 

情けない弟だが、弟もまたイジメという問題を抱えていた。拓也は自分をイジメる奴らと同じ中学に行きたくないから私立受験をしようとしていたのだ。その夢つまりイジメから解放された自己イメージが絶たれたと姉をなじったのだ。

 

ここで映画は草食系男子とは他者(現実)よりも自己イメージを優先する存在であり、その自己イメージは現実逃避の産物であると暗示しているのだ。たぶん。少なくともおれはそう受け取る。

 

女の子に優しいボク。母親思いのボク。アタマもよく誰からもイジメられないボク。礼儀正しいボク。みんなから嫌われたくないボク…

 

こんなボクたちに囲まれた鈴子は苦虫女になるしかない。誰も自分を見てくれない。私を通して自分のイメージと戯れているだけ。

 

草食系男子の前では他者である自分は何か別のモノに変えられてしまう。

 

鈴子は物語の中で自分の旅について「自分探しをしてるのではない。むしろ私は自分から逃げているの」みたいなセリフを言うが、逃げているのは男たちで彼女は無自覚ではあるが、自身の存在を守るために動き続けているのだ。

 

草食系男子の自己イメージに浸食される前に。

 

現代はあらゆるイメージが氾濫している。誰もがそれら無数のイメージを取り込んでいる。そして再生産している。リアリティは幾重にも重ねられたイメージの皮膜で覆われている。他者と向かい合うことなど稀なこととなってしまった。

 

そんな世界のどこで人は人と出会うのか。

 

鈴子の旅はイメージの向こう側を目指している。険しい旅ではある。

 

だが、もちろん希望もある。その象徴が弟・拓也だ。拓也は執拗なイジメに耐えかねてとうとう爆発する。つまり現実に立ち向かうことを選択したのだ。結果的には児童相談所に送られ相手はまったく反省もしない。だが拓也にはある種の理解が起こった。解放が起こった。そして鈴子に手紙を書いた。

 

ここで苦虫女は初めて涙を流す。

 

悲しいからではない。
弟がイメージの皮膜の向こうに飛び出すことを選択したからだ。現実に存在することを選んだからだ。

 

鈴子は他者の存在を初めて確認できた。それはそのまま希望である。

 

他者がいて自分がある。

 

希望とはそういうものだ、ヤワな自己イメージなどでは決してないのだとこの映画はおれたちに告げる。ラストシーンの歩道橋の上で鈴子が浮かべる笑みがそう告げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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