偶景 ( アンシダン ) 、あるいはバルトのTweet
図書館で十数年前に読んだことがあるロラン・バルトの「偶景」を見つけたので、懐かしさも手伝って借りてみた。
この本は、簡単に言えばフランスの有名な思想家の日記、つまりブログだ。
「南西部の光」「偶景」「パラス座にて、今夜…」「パリの夜」の4つのテクストから成り立っている。
久しぶりに読み返してみてあらためて思ったのは、表題にもなっている「偶景」の文章はTwitterで呟かれる極私的な言葉によく似ているということだ。例えばこんな文章がある。
駅の近くで、アーメドという男が、前の方に見事にオレンジ色のしみのついた空色のセーターを着ている。
あるいは、こんな文章がある。
マラケシュの市場。薄荷の山の中の田舎のばら。
断章。ただそれだけの言葉。呟き。これらがいま、Twitterで誰かのTweetとして流れてきても何の違和感もない。(もっとも、違和感のあるTweetなど存在しないのだが)
「偶景」はバルトのこうした数十篇の断片/呟きで構成されている。本の冒頭にある「編者覚え書」には、
“「偶景」は1968年から1969年にかけてモロッコにおいて、それもほとんどがタンジールやラバト、それに南部で見聞したことを記録し集めたものである”とある。そして
“…ここには〔本来あるべき〕構成された人物像や人格はまったく欠けている。要するに人格的な支柱のない小説の断片である。また、物語に必然的に一つの《メッセージ》を押しつけてしまうような物語の連続的な構成もすべて欠けている。《小説的なもの 》とは本質的に断片なのだ。”
と続く。
つまりこれはバルトのモロッコ滞在時のタイムラインである。
そう考えると、先に引用した「編者覚え書」にもある
“不意うち、一貫性の破綻、唐突さ”というようなものをわざわざ指摘する必要もなく、それどころかそうしたものは、現代ではあまり問題ではないのだという気がしてくる。なにしろそれは呟きなのだ。Tweetという「ミニテクスト」に誰が一貫性を求めるだろうか。
だからと言って、この「偶景」が何の意味もない作品であると言いたいのではない。むしろ、今この作品を読んでみて、Twitterを代表とするSNSにおいて、かつてバルトが意図、あるいは試みた世界が現出しているのではないかという気がするのだ。
バルトは「偶景」によって何を試みたのか。「偶景」とは何か。
“偶景 ー偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ……表記のゼロ度、ミニテクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの”/ロラン・バルト
これはまさにTweetではないか。
Tweetとはバルトの言うIncident(アンシダン=偶景)である。おれにはそう思えて仕方ない。またバルトはこうも書いているという。
“千の
千の
「一行の意味を引き出すことも差し控えるような」世界とは何か。
ここで再び、引用した「編者覚え書」に戻ると、ひとつの答えを見出すことができる。
それは 「一つのメッセージ」に象徴される「意味/制度」を排した、一つの定義に絡め取られない、もっと「自由な」世界だ。
図らずもわれわれはすでにそうした「自由な」世界をネットを通して、日々目の当たりにしているし、参加もしている。
すでにわれわれは《
つまり、そういうことだ。
最後にもうひとつバルトの「Tweet」を紹介して終わることにしよう。
メディナ。午後六時頃。点々と露店商人の姿が見える通りで、一人のみすぼらしい男が、歩道の脇で、たった一本の包丁を売りつけている。
※引用した文章はすべて「編者覚え書」p3~7より。
▼記憶に間違いがなければ、この本は面白かったです。
▼これは本文で紹介した「編者覚え書」で触れられていた本。