スピリチュアルの波打ち際/村上春樹『女のいない男たち』を読んだ。
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“村上春樹さん(65)の短編小説集「女のいない男たち」(文芸春秋)が18日、全国一斉に発売された。”…iPhone並みだな。
http://t.co/pjCZMdTCRX
— go-nirvana (@igomild) 2014, 4月 17
そういうわけで、おれも早速『女のいない男たち』を読んだ。
まえがきにあるように、この作品はいろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たちの短編集だ。
著者はこの本を音楽に喩えれば、「コンセプト・アルバム」に対応するものになるかもしれないという。
- ドライブ・マイ・カー
- イエスタディ
- 独立器官
- シェエラザード
- 木野
- 女のいない男たち
そのコンセプトは、もちろんタイトルそのままの「女のいない男たち」だが、結局のところ、それは何を意味するのだろう。
村上春樹の作品は常に読者を奇妙な場所に連れていく。一見、何も変わるところもないが、それでいて、以前とは何かが決定的に違う場所。
われわれは村上春樹の作品を読み終えて本を閉じた後、それに気づく。言葉ではなかなかうまく言い表せないような、仮に言い表すとすれば、場合によっては、陳腐なことのように思える変化を感じる。そしてこうした「体感」はクセになる。iPhoneのように。
だからこそ、人々は行列を作って村上春樹の新作を買い求めるのかもしれない。
熱狂的なファンにとって、それは紛れもない祝祭だ。代理店に操作されたような単なるコマーシャリズムではない。
熱狂的ではない平凡なファンのひとりであるおれはこの本を読み終えて、そう思う。
そして、こうした「コンセプト」の本が読まれるということに希望のようなものを感じる。
「女のいない男たち」に希望を感じるというのも奇妙な言い回しだが。
それどころか、むしろ、この短編集で描かれるそれぞれの物語の主人公(もちろん、男たち)は希望から遠く隔たっている場所に置かれている。
システムの従事者である水夫として世界の海を渡り歩いた男たちは、いつしか技巧に絡め取られ、自らも演技にのめり込むうちに自分自身に直面することを忘れ、気がつけば、やつめうなぎのように深い海の底で石に吸い付き、ゆらゆらと揺れている。
希望から隔てられた暗い海の底から時折、微かなあぶくが湧き上がるのが見える。あぶくはゆっくりと上昇していく。まるで儚い祈りのようにゆっくりと上昇していく。
祈る以外に、僕にできることは何もないみたいだ。今のところ。たぶん。
p.285
村上春樹は今のところ、上昇した祈りのあぶくが海面で弾けることを語ることはしていない。これからもすることはないだろう。たぶん。
それでも、この短編集のすべてに描かれているのは、宗教の、スピリチュアリズムの萌芽だと思う。
この短編集に限らず、以前からそうしたことを感じ取ることはさして困難なことではない。
ただ、村上春樹本人がそれを拒否しているように思える。
安易にそうしたものに流されることを由としていないのかもしれない。
それでもなぜか、作品を追うごとにそのスピリチュアルな傾向は強まっているように思える。
村上龍のエッセイ集『アメリカン・ドリーム』に、ポップの波打ち際を歩くという表現が出てくるが、さしずめ村上春樹はスピリチュアルの波打ち際を歩いているのかもしれないと思う。
おれは一人の作家がその波打ち際を歩いている姿を想像してみる。
その作家は男たちの作った砂の城が打ち寄せる波を受け崩れていく様をじっと見つめている。
- 作者: 村上春樹
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