忘却の海に溺れる/ヨコハマトリエンナーレ2014 ①
現在開催中のヨコハマトリエンナーレ2014の映像プログラム・オープニング上映で、フランソワ・トリュフォー監督作品の『華氏451』を観てきた。
原作は言わずと知れたレイ・ブラッドベリの小説だ。
そう言うおれは、未読だが。
要は、近未来の世界での焚書の話だ。
それはそれとして、なぜ『華氏451』なのかというと、今回のトリエンナーレのテーマが、『華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある』というのから来ているようだ。
なるほど、そうか…と分かったようで、さっぱり分からないが、日増しに物忘れが進行するおれとしては、この世界の中心には忘却の海があるという言葉には心動かされるものがある。
そういうわけで、『華氏451』だが、上映後の講演会で、講師の大林宣彦氏も語っていたように、それは「トリュフォー的」な映画を期待していた自分からすれば、肩透かしを食った印象が残った。と、言うほどトリュフォーのファンではないが。
今回のトリエンナーレがなければ、トリュフォーが『華氏451』を映画化していたことさえ知らなかった。
映画メモ
- 華氏451度は紙が発火する温度らしいが、摂氏に馴染んだおれにはピンとこない温度だ。
- 電子書籍が普及しつつある現代、書物を押収し焼却する映像は個人的にはリアリティを覚えなかった。デジタル化によって、焚書は不可能となった。
- 焚書を任務とする消防隊は、戦前の特高警察のようなものだろう。
- 主人公の上司が、さかんにスポーツをやることを勧めていたシーンを観ると、現代でもこの「手法」は効力を失っていないと思う。
- この映画で描かれている「ディストピア」は、現代ではほとんど達成されている。モノを渇望する人は多いが、知に飢える人は希少種になりつつある。
…というような感想が浮かんでは消え、消えては浮かんで、そして沈んでいった。忘却の海に。
再び浮かび上がったとき、映画はすでに終わり、大林宣彦氏の講演が始まった。
講演会に参加する機会はあまりないので、この際じっくりと傾聴するつもりで臨んだのだが、あまりにも膨大な情報量なので聴く端から忘れていく。これは音楽のライブを観に行ったときの状況とよく似ている。
正気であれ
氏は、柔らかい口調で、トリュフォーから始まり、ヌーベルバーグや黒澤明、60〜70年代の日本映画の話、秘密保護法、憲法9条、戦中・戦後の「正義」の変遷、ピカソのゲルニカと縦横無尽に語ってくれた。
それは、正義という相対的な概念にばかりフォーカスするのではなく(もちろん、してもいいのだが)、正気であることの意味を今一度噛みしめていこうではありませんか、というものだった。実に深い言葉である。
我々は忘却の海の底深く沈んだ「正気」を取り戻さなくてはならない。
浅い言葉ばかりがバチャバチャと音立てる時代にあって、氏の講演を聴けたということは幸いであった。
▼ところで、「忘却の海」で思い出したフレーズがあった。
“完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分たちをくたばらせたものを忘れ去ることだ、そして人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにくたばっていくことだ。 ”
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