芸術と漂流/ヨコハマトリエンナーレ 2014 ②
宿題の日記に書くネタがないという息子を連れて、中学生以下は入場無料のヨコハマトリエンナーレ2014に行ってきた。
映画『キッズ・リターン』で成人映画を観たい学生が間抜けな扮装で何とか入場しようとするエピソードがあるが、おれはその逆で中学生の扮装をしたかったが、学生服の持ち合わせがないので諦めて、[一般]Adult ¥1,800を払って入館した。
序章
入ってすぐ目に飛び込むのは巨大なゴミ箱だ。
▲マイケル・ランディ『アート・ビン』
美術家たちが失敗作や捨て去りたい過去の作品を持ち寄り、捨てることで成立する参加型プロジェクトです。
写真を見れば分かるように、わが国の「美術家」たちは捨て去りたい過去の作品が少ないらしい。
おれにも捨て去りたいモノは色々あるが、美術家でもなく、事前申込もしていない一般・Adultには捨てる資格は与えられていない。個人的には危険物以外なら誰でも何でも捨ててよしとした方が面白いと思うが、そういうコンセプトではないようだ。
第1話 沈黙とささやきに耳をかたむける
黙っているものは情報化されずに忘れられていく。ささやきも耳をそばだてないと聞こえてこない。 しかし「沈黙」や「ささやき」には、饒舌や演説を凌駕する重みや強度が隠されている。 その重みや強度が芸術になる。
展覧会構成より引用
確かにどの作品を観ても沈黙せざるを得ない。耳をそばだてても何も聞こえてこないおれはまだまだ修行が足りない。
マルセル・ブロータースの『猫のインタビュー』に至っては、コントにしか思えなかったが、今思えば、あの猫はきちんと答えていたのかもしれない。ただ、おれには、おれたちには猫語を聴き取る能力が著しく欠けているだけなのかもしれない。猫語を解することができなくて残念だ。もしおれに猫語を理解することができたなら、絵画や美術に関する意見ではなく、なぜわが家の玄関前の鉢植えに糞をするのか、なぜおれのバイクに小便をひっかけるのかを尋ねたい。問い詰めたい。
第2話 漂流する教室にであう/釜ヶ崎芸術大学
日本の戦後の高度成長を支える労働力を供給し続け、しかしその成長の停止とともに置き去りにされた町、釜ヶ崎。
「釜ヶ崎芸術大学」(通称「釜芸」)は、高齢化、医療、就労、住居、生と死等々、多くの問題を抱えた釜ヶ崎に、「表現」行為を通じて関わるべく立ちあげられた。展覧会構成より引用
▲天井に張り巡らされた「書」
▲『まだ死ぬのは早いので…』
このエリアでホッとする人は多いのではないだろうか。
ここには表現することの喜びがある。
ふと、最近見たばかりのNHKスペシャル『老人漂流社会』を思い出す。
このドキュメンタリーに出てくる老人たちはかつては釜ヶ崎のような寄せ場とは無縁の暮らしを送っていたが、様々な事情によってある意味、さらに底冷えのするような老後を余儀なくされていた。映像は行政の人たちがそうした老人たちをサポートするべく奔走する姿も映していた。
もちろんそのようなサポートは必要だ。ただ、そこには「芸術」がなかった。釜ヶ崎芸術大学のような試みはなかった。ドキュメンタリーに出てくる老人たちは悲しい目をしていた。「芸術」が足りないと思った。少しでも彼らに「表現する喜び」があれば、と思った。
これらは「漂流」というキーワードで結ばれている。
「漂流」というひとつの言葉に対する双方のスタンスはちょうどネガとポジのようなものなのかもしれない。
ただ、NHKスペシャルには、モノクロの不安ばかりで「色」がない。