People who has slippery brain are walking in conspiracy /ヨコハマトリエンナーレ 2014 ③
第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか
人類の歴史に繰り返し登場する、思想統制という強制的になにものかが抹殺される悲劇。
それらを批判したり糾弾したりすることが、ここでの目的ではない。
かつてあった、あるいは今もどこかで起こっているそうした悲劇が、ほかならぬ私自身の今を映し出す鏡となりはしないか。「おまえはどうなの」と私に私自身を振りかえらせる手がかりとなりはしないか。
▲エドワード&ナンシー・キーンホルツ『ビッグ・ダブル・クロス』を眺める恋人たち
このエリアで印象に残ったのは、大谷芳久コレクションだ。
『田園の憂鬱』で知られる文豪佐藤春夫その他の文人たちによる戦争賛美の詩が展示されている。
忘却の海の底からサルベージされた言葉たちがここにある。
第4話 たった独りで世界と格闘する重労働
芸術家は、理由もなくいきなり社会や宇宙と格闘しはじめる。
たった独りで立ちむかうこの重労働は、生きる衝動の純粋なあらわれなのだが、無意味で無用な徒労のようにも見える。だからそれは、役立つことを求める価値観から離脱して、忘却の海に出ることになる。そしていかなる風にもなびかず、孤独な光を放ちつづける。
さながらそれは、聖人が粗末な衣服を身につけていても、頭の背後にともるかすかな光輪によって、はっきりと見分けがつく、あれと同じ質の輝きである。
▲薄汚れた魂が中途半端に浮かんでいた。
福岡道雄『飛ばねばよかった』
▲絶望はやがて祈りに変わるのかもしれない。
福岡道雄『何もすることがない』
▲福岡道雄『僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか』
連日垂れ流されるプロパガンダの漆喰を塗りたくられツルツルになった脳味噌のおれたちは怯えるべきことと怯えるべきではないことを履き違えているのかもしれない。
侮蔑すべきでない人々を侮蔑し、口にすべきでない言葉を口にし、責めるべきでない人々を糾弾し、怒るべきことに怒らず、悲しむべきことを笑い、共有すべき感情を忘れ、認可された感情以外持つこともない、そんな生き方をする『僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか』