ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

高倉健が終わり、高倉健が始まる

昨日、高倉健の訃報を知って、その何日か前にたまたま観た動画のことを思い出した。梅宮辰夫と千葉真一が敬愛する健さんの独特かつ「ブレない」エピソードを語る内容だった。偶然に過ぎないと多くの人は言うだろうが、これはシンクロニシティだと個人的には考えている。「偶然」というものは虚構にしかない。虚構上のレトリックのひとつだ。だからと言って、別に自分に予知能力があるのだと自慢したいわけではない。自慢したいわけではないが、こういうことは割と頻繁に起こる。そのたびに新鮮な驚きを覚える。そのたびにエゴが疼くが、スルーする。思うに、シンクロニシティの多くはエゴがよそ見をしているときに起こるようだ。

それはともかく、今日YouTube高倉健の遺作となった『あなたへ』を観た。高倉健扮する刑務官の男が、妻の遺骨をその故郷である港町の海に散骨に向かう道中、様々な人たちとの一期一会を淡々と描いたロードムービーだ。ディスプレイに映る健さんの歩き方に「老い」を感じると同時に「高倉健・魂」としか形容できないものを感じた。この『あなたへ』に限らず、高倉健はどの役を演じても高倉健だった。われわれ日本人はストーリーを観るのではなく、「高倉健」を観るために劇場に足を運んでいたのかもしれないと思う。言うまでもなく、高倉健はすでにひとつのジャンルだった。これまでわれわれは高倉健というジャンルを通して、日本男児の理想の姿を学んできた。

それはどのような姿なのか。

孤高、無私、義理、ダンディズム、武骨、不器用さ、寡黙さ、誠実さ、赤心…

こうして書き連ねていると、結局のところ「高倉健であること」に収束していく。

五十年に渡り、高倉健は「高倉健であること」をわれわれに説き続けた。それは生涯に渡り、「同じこと」を説き続けた古今東西の偉大な精神的指導者のようだ。

彼らは、決して自らの言葉を、行為を撤回しない。「処世術」など必要としない。

自分に正直になることで、もし時の権力に処刑されるような目に遭ったらどうすればいいのですかという質問者に対して答えたクリシュナムルティの言葉を思い出す。

「そのとき、あなたは銃殺されるのです」

確かそんな風な答えだったと思う。そしてそんな風なことを、高倉健の訃報に接して思い出した。

銀幕上で、敵陣に単身乗り込む着流し姿の高倉健にカタルシスを覚え、喝采を送った人も数多くいるだろう。多くの人は喝采を送って、そして、それだけだった。すべて高倉健に任せきりだった。それが、「戦後昭和時代」だった。そんな「疚しさ」から目をそらすように、日本は「めざましい」経済成長を遂げていった。「高倉健的在り方」は次第に日本男児の理想像から、単なる「建前」に、更には高倉健の個性のようなものにすり替えられていった。人間のエゴは常にそうやって生き延びていく。真っ当なことを「奇特なこと」にすり替え、「伝説」と持て囃す。ただの手抜きを「普通」とか「人間ぽい」とか称して怯えた目で笑う。やがて、下衆な欲望を「毒ガス」だと言い換え、それで一躍有名となる者が出てくる。もちろん、おれの敬愛するあのビートたけしだ。高倉健が日本男児の理想像を演じたように、ビートたけしは日本人のケチな心象をわれわれにさらけ出してくれた。言わば「対の存在」のように見える。ビートたけしの「毒舌」に魅力された者たちは、その切れ味に笑い、醒めた目に酔い、チンケな自己と同一化した。「毒舌」を吐くことと知性を混同した者たちが量産された。その果てに笑いのネタに過ぎなかったはずの障碍者や貧困、老人、過疎を扱った差別ネタは今や現実のものとなっている。エゴは常に顛倒夢想する。中身よりパッケージを重宝する。月を見ることなく、それを示す指に目を奪われる。

高倉健が演じた理想像は、高倉健の個性に封印された。封印され、上澄みだけ利用された。あるいは、ことごとく反転して顕現した。

「無私」の美徳は、過労死ブラック企業問題に堕し、「任侠」は未開の暴力と片付けられ、「義理」はハラスメントの原理にされ、「不器用さ」は無能として処理され、「寡黙さ」は制度化され、その先にあったはずのカタルシスだけは永久収奪された。

ネット経由の情報によると、高倉健の訃報に、ビートたけしは相当ショックを受けているという。「対の存在」を失ったのだから当然と言えば、当然だ。

だんだん自分でも何を書いているのかわからなくなってくる。

映画のシーンが交錯する。

本当にそんなシーンがあったのか、それとも自分の妄想なのか曖昧になる。

高倉健ビートたけしが初共演した映画『夜叉』のワンシーンがフラッシュバックする。

自分を裏切った挙句、下手を打って「組織」に拉致されたビートたけしを救出するべく、組織の事務所に乗り込んだ高倉健のセリフが幻聴のように聞こえてくる。

かつて、名うての極道として恐れられていた高倉健を懐柔しようと、組織のボスが札束を差し出す。いったん受け取った高倉健は、「ご祝儀代わりです」みたいなことを言い、その札束を相手に押し返す。

「はした金でっけど」

たちまちおれは感電する。

『あなたへ』では、刑務官に扮した高倉健は、完成した神輿の出来は担いでみないとわからないと、上司にかけあい、神輿を作った囚人たちに担がせる。それは、「プライドを取り戻すんだ」というメッセージだ。上司は了承するものの、「掛け声は出すな」と条件をつける。権力はいつも条件をつける。無言の囚人たちが静かに自分たちが作った神輿を揺らす。鈴の音だけが鳴る。この映画の中で最高のシーンだと思う。

今、高倉健の中に閉じ込められた膨大なエネルギーは解放され、いったんこの世を離れ、「番外地」へと拡散した。しかし、やがて様々な姿形でわれわれの意識を振動させるだろう。

最後の最後まで高倉健高倉健だった。そしてこれから先も「高倉健は続く」だろう。高倉健に悲嘆は似合わない。

再び、『夜叉』のシーンが甦る。

そこに高倉健の姿はない。高倉健の子を宿したのだと知った田中裕子の浮かべる笑顔が夜汽車の車窓に映っている。

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