大人がいない
ここ数日、川崎の事件が何度も心をよぎる。
ネットでは早くから容疑者たちを特定する情報が駆け巡っていたが、結局のところ流布されていた通りの顛末となっているようだ。
ここでテレビや新聞、SNSの情報を繰り返すのは不毛過ぎるので特に引用はしないが、あまりにも常軌を逸したその犯行には言葉を失う。
ひと昔前によく使われた「心の闇」などという言葉は適当ではないような気がする。
そもそも「心の闇」という表現は、心の闇がない「健全な社会」が確固として存在しているという前提での文脈だが、こうした文脈はすでに機能していないように思われる。
すでに機能していないなら、機能していた時代に、社会に戻すべきだという声も「美しい日本を取り戻したい層」辺りを中心に、拡がるだろうことも想像できる。そうした波は次第に高まり、飛沫を上げながらやがて少年法の改正となり「社会」に打ち寄せるかもしれない。
厳罰化で健全な社会が戻るかはよくわからないが、ある程度の抑止力になるだろう。そしてある程度の秩序も生まれるだろう。タリバンやISISに支配されている地域程度には。
ネットで流れてきた、ISISとされる人々が、窃盗を働いた人の手首を斧か何かで切断した直後の写真を思い出す。こういうのを見ると、確かに泥棒は絶対にしないようにしようとは思う。
「ならぬものはならぬのです」という大河ドラマのセリフが頭に浮かび、昨日駅のホームで見たポスターを思い出す。
「武士道」とか「凛として」とかいうコピーが書かれていて、「そうですか」と特に凛としていないおれは思った。
白虎隊とISISの少年兵は何が違うのだろう。
ISIS絡みのニュースに触れるたびに日本史の再現を見ているのかもしれないという思いがたびたび起こる。
どこが美しいのかと思う。いつの時代を取り戻すべきなのだろう。そもそも立ち返る時代など本当にあるのだろうか。
もしかすると、多くの人が望んでいるのは「心の闇」だと片付けて済ませることができたほんの数十年前の時代なのだろうか。
仮にそうだとすれば、高度経済成長からバブル時代辺りの時代ということになりそうだ。人口ボーナス理論から見る限り、到底不可能だと思われるが、大抵の人は景気のよかった時代に戻りたいのかもしれない。たとえそんな時代を謳歌した人々から生まれたのが、あの凄惨なリンチを犯した少年たちだったとしても。
国会で何とか大臣への政治献金について問い質す映像を見た。
「知らなかったし、すでに返したから問題ない」というような答弁があった。
「冗談のつもりだったし、殺すつもりはなかった」と逮捕された少年たちが言い出すような気がして吐き気がしてくる。
大人がいない。