輪廻の銃弾/『アメリカン・スナイパー』を観た。
The bullet come back to yourself.I watched "American Sniper".
3月1日。
「ファースト・デー」ということで、桜木町のブルク13まで『アメリカン・スナイパー』を観に行ってきた。
クリント・イーストウッド監督作品であり、全米でもかなり話題となった映画なので観てみたいと思った。
映画はアメリカにおいてはまぎれもなく「基幹産業」の一つである。
そのアメリカで話題になったということは、多くのアメリカ人たちの意識の反映であるとともに、それを観たアメリカ人たちに少なくない
敗戦以来、良きにつけ悪しきにつけアメリカの影響下にある日本にも無関係な話ではない。良きにつけ悪しきにつけ無関係どころか密接な関係にあるアメリカの意識を探ることは信念や定見を持つより重要事項である。日米間のみならず、他国、他者の理解は自己認識と共に世界平和の礎である。おれは世界平和の一環としてシネマ・コンプレックスへと足を運んだ。
というようなことはアメリカン・ジョークで、実際は「ファースト・デーじゃん。安いじゃん。なら、観てもいいじゃん」という庶民的動機によって映画館に行った。雨の中。
映画館は庶民の群れ、いや、市場感覚に鋭敏な人々で混雑していた。
当日券を購入するまでかなりの時間を要した。昔は行列などほとんどなかった、郷里の3本立ての映画館が懐かしい。売店にはポップコーンなどというオシャレなモノはなく、「ロミーナ」が主力商品だった。それをバリバリ噛み砕き、瓶のコーヒー牛乳で流し込みながら『グレート・ハンティング』や『アドベンチャー・ファミリー』を観たものだ。
今では考えられないことだが、うどんもあった。プラスチック容器に入ったうどんをすすりながら『犬神家の一族』や『エクソシスト』などを観たものだ。
その劇場は今ではすっかり取り壊され駐車場になってしまった。儚いものである。諸行無常である。万物流転である。
場末感満載の追憶から我に帰ると、そこはまるでSFの世界だった。
自分の順番が来たので、銀行のキャッシュディスペンサーのような機械を操作してチケットを購入した。あの頃のもぎりのおばちゃんたちはどこに行ってしまったのだろう。エイリアンに誘拐されたのかもしれない。
会場案内のアナウンスが流れて、人々が動き出す。おれも加わり長いエスカレーターに乗る。
いくつかの予告篇の後、おきまりの「NO MORE 映画泥棒」の警告を見せられて本篇が始まる。
おれは普段はかけない眼鏡をかけて物語に没入する。一人の男が徐々に蝕まれていく姿を凝視する。一人の男が蝕まれていく姿を凝視する自分を凝視する。
カウボーイ気取りだった男の心に小さな染みを作ったのは、浮気をした恋人の言葉だった。彼女は自分の浮気に激昂する男に「単なる牧場使用人のくせに」と言ってしまう。その場に居合わせた弟の慰めのジョークも虚ろに聞こえる。
ときに、言葉は銃弾となる。ときに、慰めは傷口を開く。
男の胸に小さな穴が開く。目には見えないものの、どうしても塞がらない穴がぽっかりと開く。その穴から流れるのは血ではなく、自尊心や承認欲求や兄としての自己像や理想や夢だ。
それが、小さな穴から少しずつ漏れていく。自分が少しずつ萎んでいくような気がする。
ある日、テレビのニュースでアメリカ大使館へのテロ事件の映像を「目撃」した男は、その崩壊した瓦礫の中に自分を見てしまう。
躊躇なく男は、ネイビー・シールズ(海軍特殊部隊)に志願する。肉体を極限まで苛む訓練と罵詈雑言のシャワーはある種のイニシェーションだ。
男はテキサスのカウボーイからスナイパーへと転生した。
そして、9.11の熱風は男をパズズの待つイラクへと連れて行った。
男の見る世界はテレビからライフルスコープへとさらに狭窄していく。アメリカが狭窄していく。
男を「単なる牧場使用人」から「伝説のスナイパー」へと変える契機となった最初の銃弾の標的は、「子供」と「女」だった。
そこから先は、悪夢のような自己模倣の連続だ。伝説が始まり、男の人生が終わる。
「子供」と「女」を殺す「男」は決して家族を作ることはできない。
だから男はどうしようもなく何度もイラクに戻るのだ。パズズに呼び戻されるのだ。
男の放った銃弾は160人の人間を次々と貫通し、やがて男の元に戻る。
戻ってきた輪廻の銃弾は、あのとき、ロデオ大会の夜、男の胸に開いた小さな穴を塞いで、やっと止まった。
だが、そいつはいつ動き出してもおかしくはない。
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