ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

ノンデュアリテイ、志ん生あるいはキース・リチャーズ

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要するに、非二元・ノンデュアリテイのマスターあるいは指導者は落語家のようである。

どちらも「噺」のみで聴き手に「笑い」をもたらす。

それにしても「噺」とは非二元・ノンデュアリテイの教えをよく表している字だと思う。

口で、言葉で、覆われていた「過去・既知」のベールを剥がし、聴き手を未知の領域に連れて行くようなトークは普通の「話」とはその質を異にする。

つまり、それは「噺」である。

当たり前だが、落語とはお笑いだ。なぜわれわれは落語、漫才を聴いて笑うのか。

新しいからだ。

それを聴くことによって刷新される感覚を覚えるからだ。

笑いとは刷新である。刷新されない笑いは笑いではない。

同様に、非二元・ノンデュアリテイあるいは禅のトークの本質に触れた者は必ず笑う。笑わないわけがない。

つまりトークが「噺」となる。

ホームには誰もいない

ホームには誰もいない―信念から明晰さへ(覚醒ブックス)

ホームには誰もいない―信念から明晰さへ(覚醒ブックス)

  • 作者: ヤン・ケルスショット,村上りえこ
  • 出版社/メーカー: ナチュラルスピリット
  • 発売日: 2015/03/14
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容(「BOOK」データベースより) ホーム=“それ”=無限で非人格的なもの=意識。そこには個人(エゴ)はいません。エゴは概念です。ノンデュアリティ(非二元)を懇切丁寧に順を追って説明している傑作の書。分離のゲームから、タントラ、死、超越体験まで網羅。 著者について ヤン・ケルスショット Jan Kersschot ベルギーアントワープ大学で医学を学び、1986年より自然医学を実践。7歳の時に 「もし自分がいなければどうなっていただろう?」との疑問を持ち、それが後に究極の 真理の追究へと繋がる。スピリチュアリティと哲学に常に関心を持ち、やがて禅仏教、 タントラ、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなど東洋伝統に到達。東洋の叡智の真髄を追求 しながらそれを西洋のライフスタイルに調和させることが彼のスピリチュアル探究の礎 を成している。トニー・パーソンズとの出会いにより、探求は終焉を迎えた。

▲最近、こんな本を読んだ。

要するに、個人とは概念/フィクションに過ぎず、われわれはひとつの意識であるということを言っている。

いわゆる「ワンネス」というやつだ。

「ワンネス」、これを日本語で言えば、「天上天下唯我独尊」である。

ただし、その「我」とはエゴなどではなく、それどころか「誰でもない」。

われわれの本質とは、誰でもないすべてである。

非二元・ノンデュアリテイに限らずあらゆるスピリチュアル、宗教、グルが言っているのはそういうことだ。

どこでどう転んだのかわれわれはそれをさっぱり覚えていない。

ところがひょんなことからそれを、自分は誰でもないすべてだと「思い出す」ことがある。

あまりにも綺麗さっぱり忘れていたから、まるで初めて知ったような気分になる。

まるで自分が生まれ変わったような気分になる。

腹の底から笑いがこみ上げる。

「そういうことかい!こいつぁ面白え」

「なんてこった!とんだお笑いってもんだ」

などというような了解も同時に起こり、自分も他人も落語でお馴染みの熊さん八つぁんに見えてくる。

「あはは、バカだねぇ…仕方ないねぇ」

大笑いの後も依然として人生のゴタゴタは続くが、そんなゴタゴタもペーソスに満ちたまなざしが包んでいることを知る。

相変わらずの日々などなく、相変わらずの「自分」がいるだけで、実は毎日が新しいことを知る。

噺家の名人やノンデュアリテイのマスターたちはそんなことを教えてくれる。そんな噺を聴かせてくれる。

だからわれわれは寄席に通い、サットサンに集い、古ぼけた心の刷新を願う。

名人もマスターもわれわれの眠たい頭を直撃する。

「〈私〉とは何か?」を問い続けろと言ったラマナ・マハルシは生涯を褌一丁で過ごして全宇宙を手中にしていた。

志ん生は、「私が貧乏なんじゃない。家族が貧乏だっただけだ」と言う。

人々はやがて「教え」や「噺」ではなく、彼らのプレゼンスそのものを讃えるようになる。

褌一丁だろうが高座で寝ようが構わない。

ただそこにいるだけで、そしてその姿を見ればいい。そんな気持ちになっていく。

いつしか、はたと気づく。

彼らは、マスターは、名人はわれわれをそんなまなざしで見つめていたことに気づく。

落語家やスピリチュアルマスター以外にもそんなまなざしを教えてくれる人は他にもたくさんいる。

例えば、ローリング・ストーンズキース・リチャーズ

来日するごとに「しょぼくれ」た感があるが、その凄みが失われることはない。

たとえ、ステージの真ん中で座り込んでギターを弾いたとしても構わない。ただ、そこにいるだけで素晴らしい。

「ファン」とはそういうものだが、実は名人やマスターやロックスターたちこそ、そんなまなざしでわれわれを見つめているのだ。

マスターたちは「本来の面目を見つけろ」と言い、落語の師匠は「バカだねぇ。シャレになんねえよ」と微笑み、ロックスターは生命の炎を讃える。

口を揃えて「おれたちみたいに人生を楽しむんだ」と言っている。