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ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

気をつけろ、新緑の季節がやってくる

一進一退を繰り返しながらも気温は着実に上がってきている。

ようやく冬物の服も片付けることができると思っている人も多いだろう。

やがて、生命の息吹を感じさせるような、目に染みるような、青臭い独特の香りを放つ新緑の季節がやってくる。

冬の間凝り固まっていたエネルギーが待ち構えていたように噴出する。

あらゆる蟲たちが地表に這い出てくる。羽蟻がスカスカの柱の穴から次から次へと飛翔する。ミミズたちは急激に上昇した地中の温度に耐えかねてアスファルトの道路に避難し、クルマに轢き潰されるか太陽の熱に灼かれたちまち干涸びる。

そんな季節がやってくる。

そして、そんな季節がくるたびに思い出す出来事がある。

かつて、おれは特殊な施設内のリフォームの仕事をしたことがある。その特殊な施設の壁面に特殊なゴムを貼り巡らせるという特殊な仕事だった。ゴムを貼るためにボンドを使用する。正式な名称は知らない。要はシンナー系の接着剤だ。シンナー系だから当然独特の臭気がある。

その日は一応、送風機は設置していたものの換気が充分ではなかったのだろう。知らず知らずのうちに臭気を吸い込んでいたおれを含め数人の仕事仲間は軽いシンナー中毒になったようだった。確信はないが、おそらくなったのだろう。

それが証拠と言えるのかどうか分からないが、その作業をしている最中の記憶がすっぽりと脱落してしまったことがある。

そして、「これがあのアンパンってやつかも…」と思ったことを覚えている。同時に遠い昔、中坊の頃、今で言うヤンキーの友人が「アンパン」の経験を話してくれたことも思い出した。今頃彼は何をしているだろうか。年上キラーの甘いマスクのやつだった。

「周りがさ、何の前触れもなくシャキーン!って感じで区切られていくんだ。見えないんだけど凄い勢いで降りてくるシャッターみたいに。そう、カミソリみたいに。で、それが空間を切断しながら接近してくるんだ。シャキーン、シャキーンって」

幸いにして、おれにはそんな「シャキーン」は起こらなかったが、自分の記憶が切り取られてしまったというのは衝撃的だった。ただ、それで不安になったわけではない。人間にはそういうことが起こるのだという事実に驚いた。

そして、やはりその手の中毒は思考能力を著しく低下させるのだということもそのとき理解した。

思考能力が低下、あるいは元々低くても人間である限り、「理解はできる」というのも発見した。ただ、その理解を言語化することが不能あるいは困難になるのだ。

つまり「理解」とは本来、言語を介在させる必要はないということをあらためて思い知った出来事でもあった。

そういう意味において、「理解」とはいわゆる頭脳明晰学業優秀な人たちだけが持つ特権などではない。むしろ「理解」を特権と思い込む人たちこそ理解から隔てられている。シャキーン。

ここで言っておきたいのだが、これまで書いたことは一般的には前置きあるいはほとんど余談である。

ただ、個人的にはシームレスな話なので、こうして書いている。

…と、そういうわけでその日仕事を終えたおれは不思議な感覚に包まれながら家路を目指した。

iTunesでシャッフルされた音楽を聴きながらおれは自宅まで数十メートルというところまで来た。

ふと、目の前に、それまで話はしたことがないが、顔見知りの人がいたのに気づいた。イアフォンをしていたのではっきりとはしないが、その人がおれに何か喋りかけてきたような気がしたので、おれはすぐに音楽を止め、「こんにちは」と挨拶をした。

帰ってきた言葉は常識を超えたものだった。

「うるせえ!おめえなんかに用はないんだよ!」

おれは予想だにしなかった返答に呆気に取られ、その人の顔を見つめた。しかし彼はその後、何事もなかったかのように、タバコに火をつけフーッと煙を吐き出すのだった。

前々からその人のことを見かけるたびに「ちょっと変わってるな」と感じてはいたが、それ以上だった。

喧嘩もしていないのに、面と向かって暴言を吐かれると人は怒るより呆然とする。

おれは呆然としたまま帰宅し、そのことを考えた。さっきのことはボンドによる幻覚だったのかと思ったくらいだ。

風呂に入り、夕食を済ませ、落ち着いて考えるうちに、ひとつの結論めいたものに辿り着いた。

「つまりあれか、木の芽時ってやつか…」

子供の頃、陽気がよくなってくるとちょっとおかしい人が出てくるのは木の芽時だからだなどと俗信めいたことを聞かされたことがあるが、それかもしれないと思った。

そう考えてあらためて断片的なその人の記憶をさらってみると、小雨の日に全身緑色のカッパを着てフードを堅く絞り上げ顔だけ出して歩いていたり、周りに誰もいないのに半笑いの表情を浮かべていたことや近所の誰とも口を利かないことなどがフラッシュバックして、ひょっとしてあの時、彼は自分だけにしか見えない人と話していたのではないかという考えが浮かんだ。そこにたまたま通りかかったおれに「話」の腰を折られて激昂したのではないか。「普段」なら半笑いの無視で済ませるところを「木の芽時」のエネルギーが彼の「狂気」を増幅したのではないか。

そんな風な思いが春の陽炎のようにゆらゆらと立ち上ったのを覚えている。

以来、おれはこの季節には気をつけるようにしている。人生何が起こるか分からないが、中でもこの季節は要注意だ。

ボンドの話とこの話に何の関係があるのかと言うとこうだ。

ボンドにより軽い酩酊状態にあったおれは通常より自我意識が緩くなっていた。オープンになっていた。そのような状態のとき、ある種の「共感」が起こることがある。「感応」と言ってもいいかもしれない。

つまり、おれはその時、ある種の「変性意識状態」にあって、元々「変わり者」である彼の意識にうっかりアクセスしてしまったのではないかということだ。

おそらくほとんどの人とコミュニケーションを取らない、あるいは拒否している彼からすれば、いきなり自宅に土足で上がり込まれた感覚だったのではないかという気がしている。

以上何とも言えないエピソードだが、これもおれの新緑の季節の思い出のひとつだ。

シャキーン。