『悪童日記』と不浄観
戦争とは統合された狂気だ。そして狂気とは必ず過去か未来に属している。そこに「気づき」は存在しない。あるのは記憶と推測だけだ。記憶や推測は思考だ。思考は言語だ。
『悪童日記』(あくどうにっき、仏: Le Grand Cahier)は、1986年に刊行されたアゴタ・クリストフの小説で、作者のデビュー作。戦時下の混乱を生きる双子の少年の姿を、彼らがノートに書き付けた作文という形式で、即物的な文体を用いて描いている。/Wikipediaより引用
内容は上記引用の通りだ。
「戦時下」というのは、特に触れられてはいないが、第二次大戦のことで、アゴタ・クリストフの幼少時の経験が下敷きになっているのだろう。
そして、「戦時下の混乱」とは「大人たちの狂気のさま」だ。双子の「ぼくら」の狂気ではない。
この作品も「テリブル・アンファン」の系譜に入るのかもしれないが、「テリブル」なのはいつも大人たちだ。狂気でしか繋がることのできない大人たちだ。
そして、子どもたちにとって大人たちとは世界そのものだ。つまり、この作品はテリブルな世界の観察記録であると共にいかにそうした狂気の沙汰から身を守るかという実践書でもある。
そんな「戦時下の混乱」が激化するまで双子の「ぼくら」は大人たちの、つまり両親の愛玩動物だった。父親が出征し、「混乱」が進行すると母親は何十年も音信不通だった自分の母親の元に「ぼくら」を預ける。
ペットの座を失った「ぼくら」を待っていたのは祖母を始めとするその他の大人たちからの暴力、虐待だった。
世界は狂っていることを悟った「ぼくら」は自分たちの身は自分たちで守ることを決心する。
ぼくらは、おばあちゃんの家で学習を続けることを決心した。先生なしで、独習するのだ。p.36
学ぶことは生きることだ。
まずは言葉から始める。洗脳は、狂気は常に言語から始まる。「ぼくら」は宇宙飛行士さながら徹底的に言葉の重力を相対化する訓練を続ける。
言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。p.32
「ぼくら」は小説の原題でもある「グラン・カイエ」、一冊のノートに自分たちの観た事実を記録する。
ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。p.42
そこに記述される「あるがままの事物」はそのまま「狂気の記録」となる。
感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。p.43
「ぼくら」は言葉のもたらす狂気を直観している。「ぼくら」はただ凝視し記述する。その姿勢はこの世の無常を観ずるための仏教修行の一つである不浄観に限りなく接近する。
われわれは「ぼくら」の視線を通してかつてヨーロッパ全土を覆った九相図的世界を垣間見る。
「ぼくら」は修行の歩みを止めることはない。般若心経の説く「色即是空」の真理を確かめるように丹念に確実に実践していく。
その後、練習を重ねたぼくらは、目に当てる三角の布も耳に詰める草も必要としなくなった。盲人を演じる者は単に視線を自分の内側に向け、聾者役は、あらゆる音に対して耳を閉じるのだ。p.58
盲人と聾者の修行は結界を作るためだけのものではない。人は大抵の場合何も見ず、何も聴いていないということを「ぼくら」に確信させるものでもある。
何も見ず、何も聴かずただ嘆くばかりの「大人」に「ぼくら」はこう言う。「ぼくら」の修行により得た見解を告げる。
「あのね、泣いても何にもならないよ。ぼくらは絶対に泣かない。まだ一人前でないぼくらでさえ、そうなんだよ。あなたは立派な大人の男じゃないか…」p.62
現在もどこかの国の立派な大人の男たちが憲法改正するだのしないだの、違憲だの合憲だのと言葉を弄り回そうとしているようだ。過去と未来に目を向けるばかりの立派な大人の男たちには言葉だけがあって、「いま」という永遠がない。
「それにひきかえ、あんたたちは得だよ。いったん戦争が終わりゃ、みんな英雄なんだからね。戦死して英雄、生き残って英雄、負傷して英雄。それだから戦争を発明したんでしょうが、あんたたち男は。今度の戦争も、あんたたちの戦争なんだ。あんたたちが望んだんだから、泣きごと言わずに、勝手におやんなさいよ、糞食らえの英雄め!」p.149
※引用はすべて文庫本より
- 作者: アゴタクリストフ,Agota Kristof,堀茂樹
- 出版社/メーカー: 早川書房
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