ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

猛暑お見舞い申し上げます

事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!!

鬱陶しかった梅雨も去り、洗濯物もよく乾く。蝉も朝から鳴いている。ついでにカラスも鳴いている。

夏休みのラジオ体操に行かせるために息子を起こす。新しい希望の朝が来たというのに、息子は絶望的に眠そうな顔をしている。最近は子どもが集まらないので町内会もあの手この手で子ども集めに苦心しているようだ。ウチの町内会では出席した子どもたちに毎朝ヤクルトを配っている。おれも何度か出てヤクルトを貰ったことがある。乳酸菌は重要だ。詳しくは知らないが。

ラジオ体操に着ていく服が見つからないと愚図る息子に何でもいいから行けとトレーニングパンツみたいなやつを渡すと、それはパジャマ用だとあれこれ難癖をつける。せっかく起きたのにラジオ体操に行かないのなら、今日はゲーム禁止だと言うと、渋々出ていった。ゲームの力は、常習性は、恐ろしいものだ。

しかしなぜラジオ体操に行かなくてはいけないのかと聞かれると、おれもよくわからない。そもそもラジオ体操がなぜ日本全国に流布しているのかもよくわからないが、わが家の家訓としてとにかく小学生の間は行くのだということにしている。夏休み中、朝からダラダラさせるのもよろしくない。いずれにせよ義務教育期間は、どうでもいいと言えばどうでもいいことも学ばなければならない。

それにしてもラジオ体操を知らない日本人はほとんどいないのではないだろうか。恐るべき均一化ではある。

まあこれも一種の洗脳と言えば言えなくもないが、朝、身体を動かすのは悪いことではないとも思う。日本的なヨガとか太極拳くらいに思っていればいいのかもしれない。

と、ここまで書いてプレビューしてみると、書こうとしたことと全然関係のない話をしていることに気づいた。

最近、ふと、何の脈絡もなく「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ」というドラマのセリフを思い出したので、そのことについて書こうとしていたのだった。

で、そのセリフを思い出して、「いや、もしかすると事件は現場で起きるずっと前から起きているのではないか」と思ったのだった。

われわれの粗雑な認識は「事件」が起きるまで気づかない。すでに「それ」は始まっているのに気づけない。あるいは「それ」が「事件」になるまで気づかないふりをする。薄々、何か起こりそうだと予感しつつ目を逸らす。自分の予感より他人の意見を優先する。「石橋を叩いて渡ると」はそういうことだと思い込んでいる。

題名は忘れたが、前に読んだアーノルド・ミンデルの本に仏教の「アビダルマ」に関する話題があった。

それによると、確か熟練の修行者はわれわれ凡夫の認識をはるかに超えた微細な感覚を有するらしい。

言ってみれば、「それ」が起きるずっと前から気づくことができるのだという。

そうした見地からすれば、「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ」というセリフはあまりにも残念である。

だからと言って、「踊る大捜査線」を批判しているのではない。そもそも3回くらいしか観たことがない。爽やかなドラマである。

それでは何かと言うと、事件が現場で起きたときはすでに遅い、It's too late であるということだ。そしてそんな残念なことにならないようにするにはわれわれの中に眠る微細な感覚を今一度呼び覚ますべきではないだろうかというようなことを思ったのだった。

まずは他人の思惑や顔色でなく、自分の感情と思考に気づくことから始めよう。

突然、空が丸焦げになる前に。