ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

Pain for revolution

祭禮2日目。昨日は結局町内の神輿担ぎは不参加。ここのところずっと痛む太腿を引きずってあの重い神輿は担げない。医者にはかかっていないが、ネットで検索するとどうやら軽い肉離れのようだ。特に激しいスポーツをやってもいないのに肉離れとは腑に落ちないが、筋力の低下によってそういうことは少なくないらしい。同じ体勢を長い間続けていると自重によって筋繊維がブチブチと断裂するのだという。おれの脳裡を、スーパーなどで売られているペラペラのプラスチック容器に入った総菜についてくる輪ゴムがいつの間にか溜まり、水道の蛇口に引っ掛けられて気がつけば弾力を失いパリパリのボロボロになっているシーンが横切る。一般庶民の台所ではよく見られる光景だが、おれの筋繊維ももしかするとそんな感じなのかもしれない。これも加齢のなせる技なのだろう。自分の筋繊維が庶民的台所の蛇口にこびりついた輪ゴムのような状態であると考えると、やはり残念である。しかし、ただ残念がっても仕方ない。だからおれはこの「加齢的肉離れ」から得られる人生訓を探すことにした。

10秒後、教訓が得られた。

年を重ねるごとに人はルーチンから離れるべきである。

石の上にも三年座っていたら年齢によっては寝たきりとなってしまう。来る日も来る日も同じようなことをしていたら、ある日突然魂の筋繊維が断裂してしまう。そうならないためには、毎日可能な限り違うことをやるべきだ。毎日違う角度から人生を見つめることだ。昨日と同じ自分などいないと肝に銘じることだ。昨日と同じ自分があるという迷妄があるから、ある日筋繊維が断裂し、「もう若くはないんだ…」とガックリして筋繊維断裂と無縁の若者を妬み、優先席に座る彼らに怒鳴り散らし、レジの順番を抜かし、職場では若い部下に理不尽な要求をし、その結果「老害」などと陰口を叩かれ、やがては誰にも相手にされなくなり、孤独のあまり用もないのに炎天下の中出歩き熱中症で倒れることになるが、そして担ぎ込まれた病院でもナースのみなさんに我儘放題を口走り、その結果「老害」などと陰口を叩かれ、やがては誰にも相手にされなくなり…というような負のスパイラルに巻き込まれることになる。

そういうことにならないように、ある程度年を重ねた人間は昨日は昨日、今日は今日と毎日を新しく生きなくてはならない。毎日を生まれて初めて見る世界のように見なくてはならない。しかしもちろんこれにも匙加減は必要となる。匙加減を誤ると別の問題が生じることになるからだ。

「おはよう、おじいちゃん」

「おや、あなたはどちらさんですか?初めてお目にかかりますが」

「ママー!おじいちゃんが呆けた!」

そういうことにならないように、ある程度年を重ねた人間が生きていく上で欠かしてはならないことは定見や信念や過去の栄光ではなく、「自己認識」である。

子供たちのお囃子の音が聞こえる。おれは午後からの渡御に参加してみようという気になっている。