祭りのあと
祭りのあと、早くも1週間が過ぎた。前回の記事に書いたように結局午後からの渡御に参加してきた。
まずは町内の神酒所に集合し、町内会がチャーターしたマイクロバスで本牧神社に移動した。
本牧神社の「お馬流し」神事は、永禄9年(1566年)から400年以上も受け継がれており、現在、神奈川県無形民俗文化財、及び神奈川県民俗芸能五十選に指定されています。 「お馬さま」とは、茅(カヤ)で作った馬首亀体(=首から上は馬で胴体は亀のかたち)で、頭部からの羽や、長い尾を含めると体長約一メートル。馬首には白幣、口には稲穂をくわえ、亀体の中央には大豆と小麦をふかして、黄名粉をまぶしたお供えと、神酒を白素焼き皿に容れて神饌とします。
▲そんな「お馬流し」も450回記念ということで、本牧の各地域の神輿が一同に会すことになった。
こうしたこと(連合渡御)は初めての試みらしい。
十数基の神輿がすべて揃うまで日陰で待つ。
やがて出発の時が来る。順番に宮司さんと巫女さんからお浄めだかお祓いだかの祝詞を授けられ神輿が動き出す。
あとは何も考えることはない。ただ、肩にかかる神輿の重さに耐えるだけだ。
数十メートル進んだだけで、どっと汗が噴き出る。
一緒に雑念が流れ落ち始める。
仕事のこと、カネのこと、昨日のこと、明日のこと、誰かの言ったどうでもいい言葉、作っただけで放り出したままのTO DOリスト、子どもの頃のことが脈絡なく身体のあちこちから流れ落ちる。
流れ落ちてたちまち蒸発する。
国際都市ヨコハマの祭りでは神輿を担ぐのは日本人だけではない。
法被を着た白人女性が目を輝かせて、奇声を上げる。それは「インディアン」、つまりネイティヴ・アメリカンを真似るときに上げる声と同じだ。彼女からすれば、ネイティヴ・アメリカンも日本人もそう変わるところはないのかもしれない。「意味不明」の掛け声を持つ人々。
ここで、アングロサクソンの持つ無自覚な差別を見出すのは簡単だが、それはあまりにも不粋である。だからと言って、逆にそんな「掛け声を持たない」彼らを蔑むような捩れたコンプレックスを持っても汗も拭けない。
そんな考察もギラギラと照りつける太陽によって、一瞬で数粒の塩に変わる。
「神輿は軽いほうがええんで!」と、何篇が忘れたが『仁義なき戦い』の台詞が頭を過る。「ほんまですわ」と妄想の声に同意しても神輿の重さは変わらない。
真夏の太陽が照りつけ、蝉は鳴き続け、汗は滝のように流れ、人々は掛け声を上げ続け、神輿の重さが肩にかかる。
当然と言えば当然。シンプルと言えばシンプル。
そして今、祭りのあとに思う。
ハレの日という「非日常」はそうしたあるがままの極致に現れるのかもしれない。
だとすると、「非日常」ほど虚構と無縁のものはない。
われわれは「祭り」によって、日常というフィクションを汗とともに流れ落とすのだ。
そしてフィクションが流れ落ちるとき、われわれは国籍や人種を忘れることができる。
一瞬だけ。
【あとの祭り】町内の婦人会メンバーであるカミさんも給水係その他で一緒に渡御に参加して、時折iPhoneで写真を撮っていたが、祭りのあと見てみると、町内の神輿の写真とお馬流し参加のため地元に帰ってきたゆずの北川くんの写真ばかりだった。ついでに誰かが撮ったクレイジーケンバンドの横山剣さんの写真もLINEを通じて入手していた。かろうじて1枚だけ、神輿を担ぐおれの写真があるにはあったが、その表情は疲労困憊していた。