ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

長州往還⑤ 長州アンシダン

山頭火の小径。@山口県防府市

なぜか今回の帰省の間、二十年近く前、新潟を訪れた際に見た坂口安吾の碑のことが何度も頭を過ぎった。その碑にはこう書かれている。

「ふるさとは 語ることなし 安吾

坂口安吾がどういった心境でこのような言葉を残したのかは知らないが、そう言われてみれば確かにそうかもしれないという気がする。

ふるさとは「語り」の遠近法に収まりきらないものがあるのだろう。

もちろん時系列に沿って順序だてて語ろうと思えば語ることはできるが、そうして語られた「ふるさと」は自分の中にあるそれとはまったく別物のように思える。

語ろうとすればするほど、ふるさとは遠ざかる。

「アンシダン」、と思う。

ロラン・バルトはその著書『偶景』でこう語る。

“ 偶景 アンシダン ー偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ……表記のゼロ度、ミニテクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの”/ロラン・バルト

ふるさととは、 偶景 アンシダン の束なのかもしれない。

そんなアンシダンをまさに俳句にして残した俳人種田山頭火の生家跡を訪れた。

▲『うまれた家は あとかたもない ほうたる』

山頭火に何の興味もなかった高校時代、月に二回程度発行される地元のローカル新聞の配達のアルバイトをしていた。その新聞は朝配ろうと、夜配ろうとどちらでもよかったのでおれは自転車で夜の町をふらふらしながら配達をしていた。

そして、数十年前のある深夜、この山頭火生家跡の前の道を配達に付き合ってくれた友人と通りかかったところ、暗い路地から上半身裸のお姉さんが突然現れてどこかに走り去っていった。

何か不穏なことがあったのに違いないはずなのに、そのお姉さんの表情は怯えた風ではなく、照れ笑いだった記憶があるが、今となっては分からない。

▲「山頭火の小径」と名付けられたこの界隈にはこうした句碑があちこちにあるようだ。

▲都会育ちの子どもたちと歩く。雨も降っていないし、裸足でもない。

この界隈近くにも住んでいたことがあるので、やはり懐かしい気持ちになる。断片的な映像が脳裏を過る。そして、懐かしい気持ちとは他の感情とは違うものだと思い当たる。

どう違うのかと言うと、方向性のようなものなのだと思う。例えば、喜怒哀楽といった感情は「集中」するイメージがあるが、「懐かしさ」はそれとは正反対に「拡散」するイメージだ。

喜怒哀楽はリアリテイを形成するが、「懐かしさ」は夢に近いと言った方がわかりやすいかもしれない。

そんなことを思いながら、子どもの頃駆け抜けた路地をゆっくり歩いていると、現実感がほんの少しだけ薄くなったような気がする。

並んで歩いている自分の子どもたちの姿を眺める。

下の子が喉が渇いたと言うので、何か冷たいものでも飲もうと答えたような覚えがあるが、それは逆で、言い出したのはおれの方だったかもしれない。

▲『分け入っても 分け入っても 青い山』

真夏のアスファルトの上に目に見えない木の葉のような何かが止むことなく舞い降りている。

偶景

偶景

草木塔

草木塔