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ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

Emblem problem 2015 in Japan ① 外部を持たない内部

奇しくも2015年の晩夏、日本では2つの「エンブレム問題」が浮上した。

ひとつは東京五輪エンブレム。そしてもうひとつは山口組分裂関連。

山口組離脱後も代紋に「山菱」検討(産経新聞) - Yahoo!ニュース
メニューを開くID新規取得ログイン産経新聞 8月30日 7時55分配信 日本最大の指定暴力団山口組(総本部・神戸市灘区)の分裂問題で、離脱する山健組(同市)などの直系組織(2次団体)の組長らが結成する...

オリンピックと任侠団体を同列に語るのはおかしいのかも知れないが、あらゆるものは最終的には等号で結ばれるので個人的にはまったくおかしくないと思うが、そう思うおれ自身がおかしい可能性もなくはない。

しかも、ここまで書いて、はたと気づいたが、同列に語る以前に、これらのことについて特に何も考えずに「そうか、今世の中ではエンブレム問題が起こっているのか」と思っただけだった。

そして、エンブレム、代紋というものはいかに多くの人々を動かすのかということをあらためて思い知るのだった。

われながら、実に表層的な感想である。実に皮相的である。深みがない。情けない。

しかし嘆いてみても仕方ない。

思えば年々歳々、自分に「深み」がなくなってきている気がするが、これは言うなれば人生の引き潮に入ってきているということなのかもしれない。

引き潮と言えば、郷里の海を思い出す。遠浅の海で、潮干狩りをしたりしたものだ。

あの頃は何も考えなかったが、今はもっと考えなくなった。

👉 誰もいない海/Wave Ⅱ Threshold #1 フォーカス12入門 - ROAD TO NIRVANA

それはともかく、深みのないおれは物事を平面的に見てしまうので、結果としてあらゆることが一枚の絵のように見えてしまう。

世界は一幅の絵画だ。

かなり巨大ではあるが、ひとつの絵画であることには違いない。

まあそんなことはどうでもいい。いずれにせよ、今日本は「エンブレム問題」が浮上しているということだ。

そういうわけで、今回は浮上した2つの問題を観察してみたい。皮相的に。潮干狩りの最中に見つけた珍しい貝殻を眺めるように。

まず、東京五輪エンブレム騒動だが、一連の流れをざっと見てみると、コンペとか言っても、要するに「談合」みたいなものだったんだなという印象が残る。

オシャレな世界の代名詞のようなデザイナー業界もその実はグローバル化には程遠いドメスティックなものだったようだ。

おれは頼母子講を思い出した。

頼母子講は、まあそれはそれで、相互扶助ということで悪くないシステムだと思うが、こと五輪エンブレムのコンペという一応オープンを謳っているものともなるとかなり具合が悪い。

かなり具合が悪いが、デザイナー業界に限らず、日本のあらゆる「業界」は頼母子講のような「講」の意識が根強いのだろうという気がする。

そんな「講」のメンタリティーはそもそも講員以外の人間を当てにしない、できないという地点から出発したはずだったが、いつの間にか変質してしまったようだ。頼母子講が生まれてかれこれ800年だから変質もするのだろう。

で、変質して残ったのが「内輪のメンタリティー」だけ、つまり、「外部を持たない内部」という極めて不合理な何かだけがある、というのがこの国を覆う現状ではないかと思う。

<五輪エンブレム>佐野氏デザインを選んだ審査委員「少し似たのはまったく偶然」|弁護士ドットコムニュース

▲エンブレム使用中止を決める僅か数日前には東京五輪組織委内部ではこうした認識だったのだ。

驚くべきことだが、同時に「まあそんなもんだろうな」というような諦観もまだまだ根強いのだろう。

「外部を持たない内部」とは、よく考えるまでもなく「島国根性」である、ということに今気づいた。深みがないおれはこのようにいつも遠回りしてしまう。

しかし遠回りしたおかげで、「講」について考えることができたのでまったくのムダではなかった、と思いたい。

そんなこんなで、「講」のシステムは当てにならない外部を前提とした閉鎖的な相互扶助・生存システムだが、今回のエンブレム問題で東京五輪組織委並びに(一部の)デザイナー業界はそんなシステムのまま、開放系の外部システムを当てにしてしまっているという矛盾をあらためて露呈してしまったのだということが言えよう。

と、まるで他人事のようだが、「本音と建て前」に疑問を抱かないわれわれは多かれ少なかれこうしたメンタリティーを有していると思った方がいいだろう。

そして、そうしたメンタリティーはいまや風前の灯火である。