ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

あるマスターの教え

すでに結果は分かっていた。勝負の決着は着いていた。敗者は引退を発表していた。そんなものを観る価値があるのかどうかは意見の分かれるところだろう。おれは観る方を選んだ。河野公平亀田興毅のボクシングタイトルマッチ。

ボクシングの亀田興毅が引退表明 「俺の人生の一つだが、全てではない」 - SankeiBiz(サンケイビズ)

思えばこの亀田興毅のデビューがおれがボクシングその他の格闘技に対する興味を失ったきっかけのひとつだった。辰吉の二番煎じのようなビッグマウスはすでに苦笑の対象でしかなかった。もちろん周囲の大人たちによってそうしたヒールの役割を負わされた部分は多分にあったのだろうが、時代は辰吉の頃のようではなくなっていた。「やんちゃ」を自慢する者たちはそれを賞賛する者たちと共にどこかへ消えていきつつある。「やんちゃ賞賛文化」というようなものが残っているとすれば、そこがどこであれ、必ず「閉鎖」している。結局のところ弱肉強食をルーツとするそうした文化は外部を敵視しやがては潰える運命にある。仮に生きながらえるとするなら、そうした文化は確実にカルト化していく。カルチャーというぐらいだから、文化とはどのみち似たような道を辿るのかもしれないが、とりあえずは「やんちゃ賞賛文化」はすでにその役割を終えている。さようならやんちゃ自慢のみなさん、そしてそれを賞賛して飽きることのないみなさん。異論がある方々もおられるだろうとは思うが、そのような方々はおれとは違う世界に存在しているということで了承願いたい。パラレルワールドというやつだ。それではなぜそのような文化が衰退していくのかというと、必然だからとしか言いようがないが、ひとつ例を挙げるとすると、「豊かさに伴う物語の陳腐化あるいは喪失」ではないかと思う。どこに豊かさがあるのかという疑問を持つ人もあるかもしれないが、少なくともこれを読んでいるあなたはネットも携帯電話も存在しない頃の人々からすればかなり豊かである。ここでは、そういう意味での豊かさの話だ。これまでは限られた者だけが近づくことができた学問や知識も本人がその気になればいつでもアプローチすることはできるようになった、はずだ、とりあえずは。そんな時代に人生の不満を「やんちゃ」で晴らすような物語に費やす時間はないことに多くの人々が気づいてしまった。

そういうわけで、モハメッド・アリのような物語を持たない亀田はビッグマウスも虚しく敗れた。そしてボクシングが人生のすべてではないという言葉を残して引退を表明した。

レフリーが何度も「クリーンな試合をやれ」というようなことを言っていたのが印象的だった。

大言壮語の時代は終わった。誰かの大言壮語に喜んでいる時間はない。

黙々とやれ。

テレビの録画中継を観終えたおれはそんなことをとりとめもなく考えつつも実は頭の中では別の言葉が点滅していた。

その言葉は試合の合間に電波に乗ってやってきた。

油断するな!

ダンスは一度だけのものだ。

二度生きた人間はいない。

一度だけだ。

二度目はない…