暗い春
今さら、春でもないが、春の話だ。
この春、中心性網膜症という病気になった。
実際のところ、それがいつから発症したのかはよく分からないが、自覚したのが3月の始めで、それから約一ヶ月後にようやく時間をとって近所の眼科医を受診した。
電車の中で本を読もうとしたときに初めて右眼の異常に気づいた。
本来フラットな紙面が歪んで見えた。
それまでも徐々に目のかすみが進んでいるのは分かっていたが、加齢によるものだと思い、放置していた。
歳をとると、活字が見にくくなるのは、人間そういうものなのだろうと諦めていたが、平面が波打つように見えるなどということは聞いたこともなかった。
試しに、左眼を閉じてみると、視野全体の光量が減る。直線が歪んで見える。すべてのものが左眼で見るより小さく見える。
↓ 活字を比較すると、こんな感じになる。
左眼: 暗い春
右眼: 暗い春
ほころび始めた桜の花の色もくすんで見えた。
「白内障ではありません。中高年にはよくある症状です。まあ大抵は3ヶ月程度で自然治癒するでしょう」
眼底検査の結果のモニターを指しながら、眼科医は言う。
内服薬と点眼薬を処方された。
特に珍しい病気ではないと言われ、多少は安心したものの、それですぐに治るわけでもない。
簡単に言うと、本来ぴったりと眼球に張り付いた網膜に水が溜まり、シワが寄った状態らしい。
中心性網膜症のはっきりとした原因は特定されていないらしいが、ストレスや過労が主な誘因なのだろうと考えられている。
ストレスと言えば、やはり昨年暮れに亡くなった母のことがすぐに思い浮かぶ。
それに加え、基本的にヒマだった仕事が急に慌ただしくなり睡眠不足が続いている。とは言うものの、世間的には常識の範囲内の仕事量なのかもしれないが、常識など、網膜症となった今、おれには関係ない話だ。その前からもそうだったが。
診断されてもうすぐ1カ月になるが、今のところ快方の兆しはない。
だからと言って毎日を悶々と過ごしているわけではない。
ただ、うっすらとした憂鬱が世界を覆っているだけだ。
ただ、世界がほんの少し歪んで見えるだけだ。
ただ、世界がほんの少し色褪せて見えるだけだ。
それはおれ一人ではないだろう。