ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

私というスコトーマ

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何年か前に「スコトーマ」という言葉を知った。「盲点」という意味らしいが、現在では、心理的盲点の意味合いで用いられている場合がほとんどのようだ。

今日は終日家にこもり、コタツで寝たり起きたりして過ごしたが、それとスコトーマとは何の関係もない。

ただ、一日何もしなかったし、酉の市に出かけるのも億劫なので、何かやろうかと考えたが、特に思いつかなかったから、スコトーマについて何か書いてみようと思う。

まず何より、「スコトーマ」なのか「ストコーマ」なのかなかなか覚えられない。今でもちゃんと覚えられたという自信がない。

それはともかく、「スコトーマ」と言えば、やはりDr.苫米地だろう。最近、氏の著書を数冊読んだが、全部同じことが書いてあった。高倉健並みのブレなさである。

テレビは見てはいけない (PHP新書)

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努力はいらない! 「夢」実現脳の作り方

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夢が勝手にかなう脳 (講談社BIZ)

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上記の3冊を図書館で借りて読んだ。以下の文章はそのときのメモだ。

人は基本的に変化をきらう性質、現状から変わりたくないという性質がある。多くの人にとって夢をかなえることや、あるいは夢を見つけることさえも困難であるのは、このためである。無意識のうちに「そこにとどまりたい」というゾーンを作り出しているからだ。これを「コンフォート・ゾーン」という。 「コンフォート・ゾーン」は、ホメオスタシスから生まれる。情報空間における恒常性維持機能。 夢がかなえられるかどうかは、コンフォート・ゾーンの設定にかかっている。コンフォート・ゾーンをあるべきところにちゃんと設定し、その中にゴールへ向かう道すじを作ることができれば、あとは、無意識が勝手にその達成に必要なことをしてくれる。だから「努力」は要らない。

今、このメモを見ると、どうもおれは努力をしたくないようだ。

で、「スコトーマ」は、「コンフォート・ゾーン」から外れた領域のことを指す。だから、「スコトーマ」を外すには、現状の「コンフォート・ゾーン」を変えなければならない。しかし、「コンフォート・ゾーン」にある限り、必然的に「スコトーマ」は付随することになる。であるなら、「スコトーマ」を外すことに注力するよりも、「コンフォート・ゾーン」を持たないようにする方が望ましいと思うが、仮にそれが実現した場合、「ホメオスタシス」は一体どのように機能するのだろうか。

もちろんおれにわかるはずがないが、「コンフォート・ゾーン」を持たないということをイメージすると、ストーンズの「サティスファクション」を連想してしまう。

言うなれば、「サティスファクション」は、「コンフォート・ゾーン」内で迷う衆生に向けられたメッセージである。決して欲望を煽る歌ではない。

「スコトーマ」を外したと喜ぶのは束の間だ。

「コンフォート・ゾーン」は暫定的なものであることを忘れてはならない。

「コンフォート・ゾーン」がある限り、「スコトーマ」はある。それは光と影のように、陰陽のように、ワンセットである。

あるいは、「コンフォート・ゾーン」と「スコトーマ」は一枚の絵のネガとポジの関係である。

そして、その一枚の絵はいつも自画像となる。