魂の越境
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
1948年3月、男装の麗人として知られる川島芳子の魂は、この詩を残していったんこの世を離れた。数奇な運命に翻弄され続けた肉体を去った。
魂は三十年近い漂泊の後、新たな肉体に宿ることになった。
それは宿ると言うより、染み込むと形容した方が近いのかもしれない。
何も描かれていない白い紙に一滴のインクが垂らされ、それがゆっくりと染み込んで拡がっていくように、彼は「その記憶」を思い出していった。
染み込んだインクが描く不思議な模様は徐々にひとつの物語となった。
まるでロールシャッハテストが求める「模範的」な被験者のように、彼は物語を読み取ってしまった。
物語は、彼の人生に染み込んでいった。それまでの途切れがちの細い線でしかなかった絵は鮮やかに彩色されていった。
それは、カネがないのか、痛いのかと陰口を叩かれていた背中の彫り物に色が加えられた途端に口を噤む世間を見たときに極道が抱く感情に似ているのかもしれない。
これまでの不運や疎外感や砂を噛むような、陰画のような日々が、一気に反転し、「明瞭」なひとつの意思に変わる。
これまで、バラバラだった分子が次々と反応を起こし、繋がっていく。
何の脈絡もなかった幻の欠片が、すべて物語の伏線だったのだというように息を吹き返す。
数々の疑問が解け、実体験と夢のような記憶が固く結びつく。
言われのない苛め。仲間からの裏切り。自殺未遂。妻との死別。煉瓦造りの建物。海軍工廠。「あの頃」と同じように、大陸で虐げられる人々の呼ぶ声が聞こえる。自ら男性器を切断したことの「本当の意味」を知る。
それは、「男装の麗人に至るためのイニシエーション」だった。
予感は確信に変わり、やがて狂おしいまでの「信仰」となり、まるで、ある種の薬物のように身体の中を駆け巡り、行動となって表れる。
他人の目で規制されるような行動は、昆虫の脱皮のように残らず剥がれ落ちた。それは「本物」の行動ではない。剥落した空蝉は自分の言葉を持たない。しかし、今やすべては変容した。
もう、自分の行動を邪魔する者は誰もいない。誰も自分を「利用」することなどできない。すべての人に出会うべく出会う。すべての出来事は起こるべくして起こる。大舞台に進む俳優のように誰もが道を開けてくれる。すべては必然であり、その主導権は手の中にある。
大舞台の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえる。
そこは、中国大陸ではなかった。だが、虐げられ苦しむ人々の声に変わりはなかった。
彼は川島芳子となって、中東シリアへと飛翔した。
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