ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

日本とは日本語のことである

ヒップホップの詩人たち

ヒップホップの詩人たち

唐突に、これまでまったく興味のなかったジャンルに目覚めることがある。

ここ1カ月、ずっとヒップホップというかラップを聴いている。

それも日本語ラップ限定だ。

ある日、YouTubeでたまたま見かけた「高校生ラップ選手権」の動画が面白かったので、その流れで何人かのラッパーを知った。

ラップに関する知識は限りなく皆無に近いおれはとりあえず図書館で「ヒップホップの詩人たち」を借りた。

貧困、差別、プッシャー、オレオレ詐欺、ポン引き、刑務所暮らし…反社会性満載の人生。

これは余談だが、うちの娘が「反社会的」と言うところを、「シャンハカイテキ」と言ったことを思い出した。

ヒップホップの詩人たちの半生は前述のラップを愛する高校生たちとはかなり隔絶した、かなりハードなものであった。ラップと出会わなければ彼らの多くはダークサイドで生きることになっただろうと容易に想像できた。

だから、「ラップは更生の道のきっかけである、素晴らしい!」とか言いたいわけではない。

ラップ素人のおれが一番惹かれたのは、彼らがあくまでも「日本語」でラップをしているという一点にある。

関心のない人たちから見れば、変なイントネーションで乱れた日本語を「喋り散らす」危ない若者に見えるかもしれない。(実際、危なそうな人たちではあるが)

また、ある人たちは単なる物真似に過ぎないと冷笑しているのかもしれない。

そう思うのは、もちろん自由だが、そう思う人たちの大半は、彼ら日本語ラッパーほど、言葉を紡ぎ出すことに傾ける情熱をおそらく、持っていない。ただ無自覚に言葉を使っているに過ぎない。

母国語に無自覚なのは「普通」と言えば、普通なのかもしれないが、その「普通さ」が少なくない人たちを傷つけ、歪め、捻じ曲げる。言葉に無自覚な人は、人を無自覚に傷つける。「お前は普通じゃない」と糾弾する。挙げ句の果てに「お前は日本人じゃない」と貧弱な語彙を使い回して天下の往来で叫び散らす。自身の不遇の一因を外国人に求めるしか思いつかない。自分が言葉に無自覚だからなどとは夢にも思わない。

しかし彼らは、日本語ラッパーは違う。彼らは「日本語」を自覚して使う。それはヒップホップが、ラップが、外来の音楽であるがゆえではあるが、少なくとも彼らはそれを、「引き受けた」。

「何を大袈裟な」と思う人は多いだろう。「何を引き受けるんだ」と思うだろう。「自分は充分正しい日本語を使っている」と思うだろう。

だが、あなたが言葉に無自覚である限り、あなたは間違っている。誰かに教えられた「正しさ」の中で間違い続ける。

日本語ラッパーは、日本語のリリックを書く限り、常に「正しさ」とは何かと問い続ける。日本語でライムを刻む限り「世界」と対峙する。

かつて、この国には言霊を操る異能の者たちがいたという。そんな彼らもまた「言葉」を探し続けたに違いない。

自覚された言葉は強度を持つ。そして強度を持つ言葉が音曲に共振れを起こすとき、やがて呪術性を帯びる。

日本とは日本語のことである。

9sari

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