ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

酉の市と(日本人)

今年の酉の市は三の酉まであった。そういう年は火事が多いと聞くが三の酉に関わらず火の元には気をつけたいものだ。

ここ数年酉の市には出かけていなかったが、今年はふと気が向いたので家族揃って一の酉に行ってきた。

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一の酉ということでごった返すというほどでもなかったが、それでもまずまずの人出で祭りらしい雰囲気ではあった。

相変わらず威勢のいいあんちゃんたちがあちらこちらにたむろして金髪に染めた若い女たちが嬌声を上げていた。 イカ焼きや焼き鳥といった夜店の匂いが辺り一面に立ち込めていた。

大小色とりどりの熊手を眺めていると少しだけサイケデリックな気分になる。

そして最近読んだ橘玲の「(日本人)」のことを思い出す。

日本人の世俗的な人格はずっと一貫している。(同書より引用・以下同様)

図書館で借りて読んだが、読み終わるまでに何枚もの付箋を必要とした。

退出可能性のない閉鎖社会で多数のひとびとが共生しようするならば、各自の社会的な役割をあらかじめ固定しておくのがもっとも合理的だ。このようにして身分制が成立し、「分」を守って生きるという道徳が生まれた。

「美しい日本」という言葉を耳にして何年か過ぎたが、そんな日本が「退出可能性がない閉鎖社会」でもあるという指摘は実に的確なものだと思う。

ネット社会の現在、われわれはアジアや中東その他の非欧米圏での「あり得ない」風習や因習、ゴミの山で暮らす子供たちのこと、人身売買、男尊女卑の文化等を垣間見ることができる。

そのようなことを放置して、反グローバル化を叫んでも無意味どころか有害としか思えない。

ほんの少し前、百数十年前の日本も似たようなものだっただろう。

「ならぬものはならぬのです」と言う人の足元には苗字帯刀を許されず踏みつけられた多くの人々がいただろう。

道徳は与えられるもので見いだすものではなかった。自前の道徳を説くものはことごとく排斥された。

『鎖を切るんだ。 自由になるんだ』と叫んでも、 やつらは、浮かない顔でためらって 『御主人のそばをはなれて あすからどうして生きてゆくべ。 第一、申訳のねえこんだ』という。(金子光晴/奴隷根性の唄より抜粋引用)

愛想のない夜店で焼き鳥を2串買って食った。愛想のない味がした。チョコバナナのジャンケンに勝った息子はもう1本ゲットした。祭りというシステムに乗るだけで何の工夫もない屋台が並んでいた。あちこちで警官が立ち通行人の整理に追われていた。それでも人々は楽しそうな表情で行き交っていた。 比較的非欧米圏の外国人が多く居住する横浜市南区という土地柄なのかアジアンテイストな雰囲気も漂っていた。彼らは日本人にとっての「他者」だが、少なくともこの祭りに溶け込んでいた。すべてがお酉さんを中心に運営されていた。お酉さんを中心にする限り、「他者」は存在しない。ゆえにそれはまぎれもなく日本だった。ケバブ。トック。キムチ。

圧倒的な〈他者〉がいなければ社会はグローバル空間にはならず、ひとびとはローカルルールにしがみつこうとする。これが、日本社会がなかなか変われない理由だ。(「(日本人)より)

豪華な熊手を買った客を囲んで威勢のいい三本締めの声が上がる。

酉の市を始めその他の祭りは地域の人々によってこれからも残っていくだろう。そして年に一度人々はそこを訪れ束の間の非日常空間を楽しむだろう。

そしてやがて国家もそんな「祭り」のようなものになっていくのかもしれない。

(日本人) (幻冬舎文庫)

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人間の悲劇 (講談社文芸文庫)

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