ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

明るい方へ/『光、再考』、再考

photo credit: @Saigon via photopin cc

アマザラシの作品に、『光、再考』という幸薄そうな歌がある。

もうとりたてて絶望と呼ぶ意味さえなくなったありきたりのデイリー・ホープレスな状況において、一瞬射し込む「光」を歌った詩が聴く者の胸を刺す。

もし生まれ変わったらなんて言いたくない どうしようもない 僕の人生も長い付き合いの内 愛しくなってくるもんで ぶつかって 転がって 汗握って 必死こいて 手にしたものは この愛着だけかもな まぁいいか そんな光

ただ愛着だけが、つまり、もはや他人のもののようになった遠い記憶だけが「彼」をこの世に引き留めている。

終わりなき無明長夜。

時々虚しくなって全部消えてしまえばいいと思うんだ 神様なんてとうの昔に阿佐ヶ谷のボロアパートで首吊った 綺麗な星座の下で 彼女とキスをして 消えたのは 思い出と自殺願望 そんな光

そんな光が投影する過ぎ去った日々が何もない空間に浮かび上がる。

なぜ君はそんなに虚しいのかと尋ねたくなるが、おそらく「彼」は「虚しいとかいうのとちょっと違うかも…」と遠慮がちに微笑むような気がする。

彼女が歓楽街でバイトをはじめて夜は一人になった 特に寂しくは無いけど急にテレビ番組が好きになった 朝彼女が戻って 僕が部屋を出て行く 無垢に笑う彼女が本当に綺麗だと思った そんな光

そうか。寂しくはないんだ。でも寂しくない人はテレビ番組を急に好きになったりはしないんだよ。もしかしたら君は「不甲斐ない」自分を責めてるのかな。人生金じゃないと考えてはいるけど、彼女を歓楽街で働かせることになった自分を無能だと思っているのかな。そうだとしたら、君は単にお金の稼ぎ方を知らない、もしくは知ろうとしていないような印象を受けるよ。まあでもこの国ではそういう教育は一切と言っていいくらいないわけだから仕方ないと言えば仕方ないかもしれないけどね。でもさ、仕方ないと言って済まないような時代がもうすぐそこまで来てるんだよ。そのへんのことは頭に入れておいた方がいいかもしれないよ。まあどっちでもいいけどね。どっちでもいいけど、知ろうと思えば知ることができるのにそれをしないことで寂しさを感じるのはどうかなとは思うよ。でも寂しくはないんだったね。そういう風に生きるのってなかなか難しいね。もしかしたらそういう風に生きてるから生き辛くなるのかもという可能性も検討してもいいんじゃないかなとは思うよ。

否認とは言わないけど、それっぽい生き方とは手を切った方がいいよ。いや、別に俗物になれっていうわけじゃないんだ。もっとシンプルに在ればいいんだ。もう2015年なんだ。自分の感情ともっと向き合った方がいいよ。その感情を否認することで自分が何から身を守ろうとしているのか、身を守ろうとしているのは本当は「誰か」を見つけるんだ。

君は本当は知っているはずだよ。その「誰か」が本当は存在しないってことを。

そこにいると思っていた「自分」はどこにもいなくて、ただ「光」だけが射しているってことを。

そんな光はどんどん光量を増してきてるよ。そんな光がもたらすコントラストはますます明瞭になってくるはずだよ。

だから、日陰の中から出るんだ。

自分から光に向かうんだ。影踏み遊びはもう終わりだ。

明るい方へ。

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