龍宮の日々
娘の卒業式に出席してきた。早いものだ。ついこの前、自分が中学を卒業したような気がしていたが、気のせいなのだろうか。
それについて特に批判も反対もないがいつ頃からそんな風になったのだろう。
「とっくの昔になってるよ」と、カミさんが言う。
「とっくの昔」の「とっく」とはどの程度の時の流れなのか判然としないが、そう言われてみれば、小学校の卒業式のときも歌ってなかったような気がする。
それでは何を歌ったかと言うと、聴いたことのない歌で、「旅立ちの日に」という歌だった。
「聞いたことないって、小学校の卒業式でも歌ったじゃん」と、カミさんが言う。
まるで記憶にない。おれはパラレルワールドにいたらしい。とっくの昔に。
それはそれとして、「蛍の光」なんかはいい歌詞だと思うが、やはり今の時代的には合わないのだろう。
何時しか年も、すぎの戸を、 開けてぞ今朝は、別れ行く。
「過ぎ」と「杉」をかけるところなど、イカしてる気がするが、花粉症のせいでかなりのイメージダウンである。
止まるも行くも、限りとて、 互に思ふ、千万の、 心の端を、一言に、 幸くと許り、歌ふなり。
よく学び国の為に尽くしましょうというような内容の歌詞がいつの頃からか忌避されるようになったのかもしれない。そもそもスコットランド民謡だし。
歌は世につれ世は歌につれとはよく言ったものだ。
卒業生の答辞の際、尾崎豊の「卒業」(ピアノ曲)が流れる時代だ。
別に、昔のようなスタイルの卒業式に戻すべきだという提言などではもちろんないが、自分の中学時代と比べたら隔世の感を覚えずにはいられない。
と、納得しようとするのは「思考」であって、不思議なのはあの頃とまったく何も変わっていない「まなざし」があるということだ。
それは「記憶」ではない。
「記憶」が不思議なのではなく、それを見ている不変のまなざしがあるということが不思議なのだ。
非二元論的には何の不思議もないことだろうが、二元論的には不思議と形容するしかないそんな「まなざし」が年を取るにつれ拡大している気がする。
もちろんその「まなざし」は誰にでもある。正確には、誰もがひとつの「まなざし」の中にある。
そして、その「まなざし」は「時間の外」からやってくる。
「時間の外」からやってきたひとつのまなざしは一人一人に分光し、それぞれの時間を生む。
よく分からないが、時間とは屈折率なようなものなのかもしれない。
と、そんな小難しい話はひとまずこのへんで切り上げて、結論めいたことを言えば、子供の成長を見ている期間というものは、浦島太郎が龍宮城で過ごした日々と似ているのだろうなということだ。
まだ玉手箱を開ける予定はない。