ROAD TO NIRVANA

愛とポエムとお花のブログ。ときどき書評。たまに映画レビューとか。

長州往還① 瞑想1号線

今年の夏もわが家の帰省旅行はレンタカーを利用した。車種は日産ノート。レンタルした時点での走行距離も2,700kmほどでほとんど新車同然だった。ナビも元々付いていたらしくオプション料金も取られなかった。

目的地は山口県。片道大体1,000kmの道程だ。そう長くもない休みだというのに移動に時間をかけるのは無駄と言えば無駄かもしれないが、自由に移動できるということは他には変えがたい価値がある。この移動の価値を感じられない人は基本的に不自由である、と個人的には思っている。

そしてもうひとつ。ドライブ、特に長距離のそれは瞑想の感覚をもたらしてくれる効果がある。

運転中、人は同乗者と話していても音楽を聴いていても気をとられることなく路上を走行する。万が一、気をとられた場合にはクラッシュしてしまう。当たり前のことだ。

瞑想の本質はこの「当たり前のこと」の中にある。決して呪文を唱えて何か特別な世界に没入するといった「当たり前のこと」の外に出ることではない。しかし日常生活において「当たり前のこと」の中に居続けるのはなかなか難しいものだ。むしろほとんどその外をフラフラしていることの方が多い。しかも自分がフラフラしていることさえ気づかない。

しかしこれが運転中となれば大抵の人は前後左右に気を配り、止まるべきところは止まり、進むべきところは進み、問題なく目的地に到着することができる。

つまり、人はハンドルを握った途端に半ば自動的に瞑想に入らざるを得ない。その目的がレジャーだろうと仕事だろうと関係ない。車に乗るというのはそういうことだ。

さらに言えば、自我とは車のようなものである。美しい車もあれば古ぼけた車もあるが、結局のところ車は車に過ぎない。重要なのはドライバーだ。

同様に自我もまた結局のところ自我に過ぎない。重要なのはその自我を見つめるまなざしだ。

ゆえに、瞑想とは常に車を運転しているような意識を持つことであると言えよう。

▲だからおれはこのようなことがあっても気にしない。

話は前後するが、そういうわけで、おれたち家族は、8月11日の午後3時少し前に横浜を出発した。高速道路は料金の割引がある深夜に入ることにして、それまでは国道1号線をのんびり走ることにした。

特に語ることもない見慣れた風景はやがて、戸塚辺りから急速に日本全国どこにでも見られるようなそれに変わる。

そのうち、ナビの音声ガイドが「2時間経過しました。そろそろ休憩したらいかがですか?」みたいなことを言ったので茅ヶ崎のコンビニで一服。

コンビニ前に置かれたベンチで夏休み中ヒマを持て余したような2人の女子中学生か女子高生が話をしている。他に行く場所はないのだろうかと思う。ちらっと見ると、1人の子が手にしていたスマホの画面はひび割れてそれをセロテープで補修していた。

真夏の国道沿いのコンビニのベンチに座りひび割れた画面のスマホを持つ女子中学生、もしくは女子高生は他にどこにも行くあてはないのかもしれない。本当は誰もがどこにも行くあてなどないのかもしれない。

だが、少なくともおれたちにはかろうじて「行くあて」はあった。