虚無への郷愁
不定期だがなくなることはない。それは忘れた頃にやって来る。自分ではある種の「調整」なのだろうと思っている。人によっては軽微な鬱症状と捉えるのかもしれない。あるいは自閉。要するに外界への関心が薄れていく状態に似ていなくもない。関心が全くないというのではない。ただ、自分と外界との間に薄い皮膜のようなものがあるような感覚。こうして言葉にすると何やら不穏なイメージを喚起するようだが、それとはおそらく正反対だ。その皮膜は「不必要な」感情だけを通さない。選択的透過と言うのだろうか、激しい怒りや深い悲しみといった激情が濾過されているようなフィーリング。
しかし世界情勢を眺めるとそんな悠長なことは言っていられないような深刻な課題が山積している。国内のニュースも陰惨かつ不条理なことばかり。その間に挟まれる愚にもつかないバラエティ番組。なぜあのタレントたちは人前であんなに大口を開いて物を食っているのだろうか。なぜあの老人はわけ知り顔で時事問題を語っているのだろうか。
こうしたことから避難したいという気持ちが「皮膜感」をもたらしたのだろうか。確かに否定はできない。否定はできないが、それだけではないような気がする。
そんな時、この曲が頭の奥から響いてくる。
『パリ、テキサス』…ヴィム・ベンダース監督の映画だ。
テキサス州の町パリをめざす男。彼は失踪した妻を探し求めていた。男は、4年間置き去りにしていた幼い息子との間にも親子の情を取り戻す。そして、やがて巡り会った妻に、彼は愛するがゆえの苦悩を打ち明ける……。さすらいの監督W・ヴェンダースが、S・シェパードのシナリオを得て、ロード・ムービーの頂点を極めた秀作で、カンヌ国際映画祭グランプリに輝いた。哀感漂うライ・クーダーの音楽に乗せて、ロビー・ミュラーが映し出すテキサスの風景の何と美しくも孤独なことか。/all cinemaより引用
初めて観たのはもうずいぶん前のことなので、内容についてはほとんど忘れてしまったが、引用した解説にもあるように、ライ・クーダーのギターの音色と荒涼としたテキサスの風景だけは脳みそにしっかりと染み込んでいたようだ。
それがなぜ今になって鳴り始めたのか正確なことはわからない。人は自分のことを本当にわかることは極めて稀なのかもしれない。実際はただ認識するだけだ。その認識にそれぞれ好き勝手な色をつけているだけに過ぎない。
そういう観点から今回の状態に着色するとすれば、今自分が目にするものすべては「虚無」を内包しているのだということなのかもしれない。テキサスの荒涼とした、それでいながらどこか懐かしい風景のような何か。
頭の中を流れるライ・クーダーのギターが今現在のあらゆるものをテキサスに変える。煌びやかな都会の風景を砂漠に変える。ハルマゲドンもとうの昔に通り過ぎたような静謐な虚無。やがて誰もがそこに帰るだろう懐かしいどこでもないどこか。
ライ・クーダーのギターの音色はそんな忘れかけていた郷愁を呼び起こす。