すべての終わりの地から、すべての始まりの地へ/鹿島神宮参拝記
満開だった桜も散った。
この春高校を卒業した娘もめでたく大手予備校に進学が決まった。これまでの勉強態度を見ている限りでは、まあ妥当な結果だろうとは思うが、やはり都合のいい奇跡は起こらなかった。
奇跡が起こらないことも、また、神は在ることの証明だ。
あるがままという神。
そんな4月。
カミさんと2人で、鹿島神宮に参拝してきた。
なぜ横浜からわざわざ茨城県の鹿島神宮まで行ってきたのかと言うと、そこが「すべての始まりの地」と称される神社だということを、つい最近知ったからだ。
なぜ「すべての始まりの地」なのかは、ネットで検索するとすぐに出てくるので、興味ある方は各自ググってほしい。
いずれにせよ、おれは「鹿島神宮はすべての始まりの地である」というこのワンフレーズだけで、行く気になって、実際に行った。
今思えば、今年に入ってから、自分自身が古びていると言うか、世の中に蔓延する閉塞感と言うか、「すべての終わりの地」にいるような気分がまとわりついていたのだと思う。
右を見ても左を見てもSNSを見ても、すべてが終わっているのに気がつかないフリをしているような印象が拭えない。あるいは、気がついていないのか。なぜそんなことや、あんなことで大騒ぎしているのか。メメントモリという言葉を知らないのか?
と、自分だけは別格であるかのような口ぶりをしても何も変わらない。
ここはひとつ心機一転すべきである。すべての終わりはもう飽きた。
だから、すべての始まりの地、鹿島神宮に参拝するのだ。
そういうわけで、おれとカミさんはニコニコレンタカーで借りたピンクのマーチに飛び乗った。
道を間違えて、予定より一時間遅れての到着だったが、そんなことは気にしない。重要なのは、この地に立つことだ。鹿島の神気に触れることだ。
おれたちは参道を進む。
▲ さざれ石。
▲ 神の鹿たち。
▲ 奥宮。
想像していたよりシンプルな作りだった。
そしておれたちは奥宮のさらに先に進んだ。
▲ 何という神様か知らないが、地震を起こすナマズをねじ伏せている。
▲ かなめ石。見た目で侮ってはいけない。この石こそ、鹿島のみならず、この国を守っているのだ。
▲ 御手洗(みたらし)
どのくらい前の話なのかは分からないが、その昔、鹿島神宮を訪れた参拝者あるいは行者はこの湧水で身体を浄めていたのだという。今では、透き通った池の中を丸々太った数匹の鯉が泳いでいる。
この遊水池の傍にある茶店で休憩。店の外の縁台で食べる。
そして、おれたちは無料駐車場に停めてあるクルマに戻り鹿島神宮を後にするはずだった。
しかし、突然カミさんが慌ててポケットやバッグの中をかき回し始めた。
「iPhoneがない!」
「マジか!(あと8回分の支払いが残っているのに!)」
思いつく場所と言えば、あの茶店しかない。
おれたちは、さっきまでとは打って変わった真剣な表情で、再び参道を進む。
茶店に着くや否や、おれは店のお姉さんに、「ケータイの忘れ物はなかったですか?」と訊ねるが、ありませんという答え。
そうか…やはり誰かに持っていかれたか。30分以上経っているし…
と、諦めかけたところに、カミさんが、「あった!」と店に入ってくる。
iPhoneは、さっき腰掛けていた縁台にそのまま置きっ放しになっていた。
奇跡である。
さっきのお前たちには、真剣さが足りなかった。ここは真剣な者だけが来る場所だ。
おれは、鹿島の神にそう言われた気がした。
今回はこの辺りで許してやろう。
鹿島の神がニヤリと笑う。
真剣に生きろ
鹿島の神が言う。
すべてが始まったと思った。