満中陰ジャンクション
実感とは何か
2月5日の夜、昨年暮れに亡くなった母の四十九日の法要を終えてしばらく実家で過ごした後、横浜に向かった。
カミさんと子供たちは一足早く横浜に戻っていたので、一人で高速道路を走った。
夜の高速道路を走っている間、色々な思いがまるで現実の風景のように現れては消えていった。
今でも自分の母親がこの世にいなくなったことの実感がない。もしかすると、この種の実感というものは永遠にないのかもしれないとも思う。
これもひとつの否認なのだろうか。
そうとも言えるのかもしれないが、それだけではないような気もする。
もちろん、母親が死んだというのは厳然とした事実だ。それを心のどこかで認めたくないから、実感が持てないのだろうかとも考えたが、それとはまた少し違うような気がしている。
一般的に、実感があるとかないとかの尺度はどのようなものなのかと考えてみると、それは感情の動き・昂りを指しているのだろうと思うが、そうであるとすれば、今回のことに限らず、自分にはやはり「実感」というものはなかなか縁遠いものなのかもしれない。
感情の浮き沈みこそが「実感」であるのだとすればの話だが。
あるいは、実感が持てないのは人の死にまつわる様々な約束事、習俗、手続き等に追われることになるからだろうか。
そうした諸々によって、悲しみを軽減されたということは確かにあるかもしれない。
葬儀屋との打ち合わせ、予算の確認、日取りの確認、親族への連絡…その他諸々の「初めてする仕事」が肉親を失なった者の心の緩衝材となった。
滋賀県にさしかかる頃から雨が降り始めた。
フロントガラスの無数の雨粒を眺めながら、おれはそんなことを考えて、しばらく仮眠しようと目を閉じた。
寺を決める
「お寺さんはどうしますか?」
担当となった冠婚葬祭ディレクター氏に尋ねられ、あらためて分家である我が実家には普段から付き合いのある寺などなかったのだと思い出した。もちろん本家と同じ寺の坊さんに葬式を挙げてもらうのだろうと漠然と考えていたので、その寺の名を告げるとそのディレクター氏は、携帯電話を取り出しすぐに連絡をした。
おれは傍でその様子を見つめる。そうか、こんな感じでお寺さんとか神主さんとかを決めるのかと、何も知らない子供のように思った。
何言かの会話のあと、ディレクター氏は申し訳なさそうに「あいにくスケジュール的に無理そうです」と言う。そして、「どうしてもあそこじゃなきゃダメでしょうか?」とおれに訊く。
「いや、どうしてもってことはないです。親戚の何人かがそこで葬儀をしてもらったからそうするものなのかなと思って」
「お葬儀だけのお付き合いのお寺さんというのもありますよ。その後の法事はまた別のお寺さんにしてもらってもいいんですよ」
そうか、今時の葬儀というのはおれが思うよりカジュアルでフリーなのかと思い、「じゃあとりあえずお任せします」と答えると、ディレクター氏は地域のお寺リストから選んだ寺に連絡をする。
そしてスケジュールの合った寺に葬儀を挙げてもらうことになった。正直な話、どこの寺でもよかった。とりあえずは葬儀を無事終わらせることが重要だった。
葬儀翌日、おれとカミさんはお布施を包んでその寺にお礼に行った。
もちろんその寺を訪ねるのは初めてだ。想像していたより立派な寺だった。本当は何も想像してなかったが。
本堂に通され、ご住職からまずは今後の年忌のことや仏壇の飾り方等について説明を受ける。
「で、どうされますか?ウチとしてはお葬儀だけのお付き合いでも結構ですし、今回新たに門徒さんになられるというのであればそれも結構なことです」
そこで、おれは一番気になることを質問した。
「あの、それで仮に門徒になるとしたら、何というか、入会金みたいなものはおいくらになるんでしょうか?」
「門徒料として、年に3,000円ほどお納めください。ええ、それだけです」
3,000円!それだけ?アマゾンプライムの年会費より安い。何万円もの寄付を想像していたおれは、「よろしくお願いします」と答えるのだった。
南無阿弥陀。
築地本願寺へ
これまで親鸞聖人のことを考えたこともほとんどないのに、浄土真宗の門徒になってしまったおれは、これもご縁だと思いつつ、いったん横浜に戻り仕事に復帰し、年を越した。
その間にも四十九日の法要の準備を少しずつ進めた。同時に少しでも浄土真宗のことを知ろうと本を読んだり、ネット検索をしたりして過ごした。
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/09/01
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 40回
- この商品を含むブログ (44件) を見る
- 作者: 五木寛之
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/03/17
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (3件) を見る
ボンヤリと見えてきた親鸞聖人や蓮如上人の思いが正確に今も伝えられているのかは定かではないが、今この時代の浄土真宗的には、仏壇に飾る「ご本尊は本願寺からお迎えしましょう」ということらしい。
ネットでも浄土真宗のご本尊である阿弥陀如来の掛け軸は「リーズナブルな値段で売られているが、今後も、自分だけでなく、子供らが仏壇に手をあわせるたびに「ああこのご本尊様は父さんが〇〇ショッピングで安く買ったなぁ」などと思うのもどうかと思うので、ここはひとつ本物を買おう、いやお迎えしようと思い立ち、浄土真宗本願寺派別院である築地本願寺へ行ってきた。
中心に飾る阿弥陀如来の掛け軸とその両側に飾る親鸞聖人と蓮如上人の脇掛けの三幅の免物料は45,000円だった。おれは、「やはり本物は違う。阿弥陀さんの後光の配色がポップでイカしてるから、このぐらいの値段はするのだ」などと自分に言い聞かせるのだった。
そして、四十九日法要の前々日、おれたち家族は阿弥陀如来、親鸞聖人、蓮如上人の絵像を携えて、レンタカーで郷里へと向かった。
慌ただしくも、四十九日法要は無事滞りなく終えることができた。何十年も会ってなかった親戚とも顔を合わせることもできた。とりあえずは一区切りがついた。次は一周忌の法要だ。
六道ジャンクション
そう思いながら、仮眠から目覚めたおれは再び夜の高速道路を走り始める。
大した渋滞もなく車は順調に東に向かう。
おれはただひたすら前を見てアクセルを踏む。
バルドゥー、と思う。
中陰すなわちバルドゥーが明けたということは、チベット仏教的にはこれで亡き母の行く道が決まったということになるのだろうが、わが家は浄土真宗だ。
浄土真宗的には、人はみな極楽浄土へと往生することになっている。
だから母もすでに極楽浄土にいる。そうであれば、バルドゥー(中陰)の後、魂が六道のひとつに進むことになるという話はどうなるのだろう。
ボンヤリとそんなことをあてもなく思いながら、何個目かのジャンクションを通過したとき、ふと、思った。
人がこの世を去った後、六道の辻に立つのは残された生者の方だ。
おれたちは常に六道の辻に立っている。
一体、自分はどの道を選んだのか、どの道に進んでいるのか知らないままにおれは暗闇の中、アクセルを踏む。